ビートルズ »

[10 6 月 2009 | 4 Comments | | ]

数年前、2chのビートルズ板で、最萌トーナメントという企画があった。
毎日、ABC順に2曲づつが選ばれ、自分の好きなほうを投票していくトーナメントである。
それで決勝に残ったのが、「A Day In The Life」と「Strawberry Fields Forever」の2曲。
そして偶然か必然か、最後はほんの1票差で「A Day In The Life」が優勝したのだ。
僕はその時は「A Day In The Life」に投票したが、もしかしたら苺に投票していたかもしれない。
おそらく、これに参加していた人たちはみんな、そんな感じだったと想像する。
トーナメントが終わった後の書込みでは、どちらが勝ってもおかしくなかった、楽しかった、などの賛美が数多く見られた。
さて、今日は、この優勝曲「A Day In The Life」について語りたいと思う。
ご存知通り、この曲は「ロックの金字塔」といわれた「SGT. PEPPER’S LONELY HEARTS CLUB BAND」のエンディング曲である。

この曲の一番でジョンは独特の声でこう歌う。(日本語は内田久美子訳より引用。)

I read the news today oh boy about a lucky man who made the grade
And though the news was rather sad
Well I just had to laugh
I saw the photograph.
今日、新聞で読んだよ。
運良く名をなした男の話だ。
少々悲しいニュースなのに僕は笑わずにいられなかった
そこに載ってた写真をみてね
He blew his mind out in a car
He didn’t notice that the lights had changed
A crowd of people stood and stared
They’d seen his face before
Nobody was really sure
If he was from the House of Lords.
彼は車を運転してるうちにぶっ飛んじまって
信号が変わったのに気がつかなかったんだ
野次馬がたくさん寄ってきて
見覚えのある顔だとみんなが思ったものの
そいつが上院議員だと断言できる人はひとりもいなかった
知ってる人の死。悲しむというよりも興味本位でそれを眺める人々。
しかし、知っていたとしても本当は誰かもわからない。確証がない。
現代の人間関係の希薄さを象徴するこの歌詞にゾッとする。
僕はこの歌詞に、渋谷の高層マンションで「孤独死」した飯島愛を重ねてしまう。
そして歌詞は二番につづく。
イギリス軍が戦争に勝ったという映画の話だ。
これはジョンが出演した「How I won the War」の事を歌っているといわれている。
しかし、その歌詞はあくまで冷静だ。
I …

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[8 6 月 2009 | 4 Comments | | ]

昨日の『サザエさん』でちょっと気になるシーンがあった。
サザエさんが洋裁に凝ってしまい、晩御飯の仕度をフネをまかせっきりにしてしまったのだ。
それに対して、夫のマスオが、サザエさんの実母のフネに謝るのである。
何気ないシーンであるが僕は微妙な違和感を感じた。
例えば、自分の体験では、妻が何かマズいことをした時、妻の母が僕に謝ることはあっても、僕が妻の母に謝るということは考えられないからだ。
逆に、僕が妻に対して、何か悪い事をしてしまった時は、僕は義母に謝るのは当然といった意識はある。
つまり、僕の場合、サザエさん的世界とは、謝る人と謝られる人関係が逆になっているのだ。
妻にその事を話したら、「それは所有意識の差よ。」と言われた。なるほど、そういう意味では妻はまだ義母さんのものなのか?
しかし、いつから、サザエさん的世界が「現代」になったのだろうか。
最近、浅野忠信や宮沢りえが、大人になったカツオやワカメに扮するCMがあったが、それによると、2008年にカツオが36歳、テレビアニメの時代はカツオが11歳だから...
ようするに、そこから計算すると、テレビアニメは、1983年の出来事ということになる。
そういえば、昨日の放送回では、たまたま電話というのが一つのテーマだったからよく覚えているのだが、サザエさんの家の電話は手回しの黒電話だったが、モダンな友達の家の電話はプッシュフォンだった。
黒電話とプッシュフォンの混在、これは1983年という時代の状況として正しい。
という事は、妻の失態に夫が母に謝るのか、母が夫に謝るのかという変化は、バブル以降の出来事なのだろうか。
大雑把に言えば、その間、男女雇用機会均等法の成立、女性の経済的自立、精神的自立、男女共同参画社会基本法成立という流れがある。
そして、いつの間にか、サザエさんの時代が「現代」になってしまっているのであった。
妻がこの現象を説明するときに使った「所有」という概念だが、それで思い出すのが、夫婦別姓に関わる民法の改正案だ。
結局、この夫婦別姓問題の本質って、女性の自立という問題ではなく、女性の所有意識を夫が持つか、母が持ち続けるのかということなのかもしれない。
そして、現代の母優勢の流れが夫婦別姓の盛り上がりの背景にあるのは間違いない..と思う。
さらに言えば、娘を夫から母が取り戻す運動が、夫婦別姓運動なのかもしれないのだ。
しかし、実は、元々、日本人には、夫婦別姓的DNAがあるという見解もある。
例えば、僕の興味の対象の「家紋」の世界では、関西を中心に女紋という伝統がある。それは、女性が旦那の家に入っても家紋は、実家の母の紋を使用し続けるという風習だ。
また、詳細はまたの機会に書くが、源平藤橘を代表とする「氏」というのは、嫁ぎ先の「氏」ではなく、生家の「氏」を引き継ぐものなのである。
それにしても、僕たちはいつまでサザエさんをリアリティある世界として見続けられるのだろうか。
ちなみに、テクノロジーで言えば、サザエさんの世界にはまだ、パソコンも携帯電話もない。
とりあえず、なんとなく毎週見ている番組だ、初めてサザエさんに携帯電話が登場する歴史的瞬間は見逃すまいと思う。
まさむね

テレビドラマ »

[7 6 月 2009 | No Comment | | ]

『ザ・クイズショウ』(日本テレビの土曜日の21:00~のドラマ)6日の放送回はさらに、面白い局面をむかえた。
もともと、この『ザ・クイズショウ』は、テレビという不自由なメディアの本音をドラマという形式で告発し、(「『ザ・クイズショウ』に見るテレビ業界の欲求不満と嫉妬」)同時にまた、テレビのウソをも告発しているという面も持っている大変ユニークなドラマであった。(「『ザ・クイズショウ』の欠点はそのままテレビの欠点だ」)
そして、6日の放送回では、さらにテレビの偽善性、犯罪性にまで話を及ばせてきたのである。
話はこうだ。
『ザ・クイズショウ』のプロデューサの冴島涼子(真矢みき)がかつて、テレビ局の報道スタッフとして、MC神山(櫻井翔)やディレクター本間(横山裕)の友人(?)で、飛行機事故で亡くなった新田美咲(水沢エレナ)の死を過剰に演出し、出世のための道具にしたという過去が暴かれるのである。
彼女は、その事件をより衝撃に見せかけるために、亡くなった少女の人生をより悲惨に演出して放送し、その放送が優れた報道として評価される。彼女は、この報道のおかげで、出世街道への切符を手に入れたのだ。
ディレクター本間は、そのことの「罪」をクイズを進めることによって暴き、さらにドリームチャンス(最後のクイズ:これに正解すると夢がかなう)では、「復讐」として冴島の子供の美野里(大橋のぞみ)が自分の本当の子供ではないという真実を暴く...か!?という瀬戸際まで追い詰めるのだ。
ここで面白いのは、実際、同じ局での報道番組『ZERO』のニュースキャスターとして活躍する櫻井翔を、ドラマの中では、その報道番組の偽善を告発するMC神山の役をさせるという、ある意味、凝った「自爆」あるいは「自虐」が演じられてるからだ。
テレビ業界はついに蛸のように己の足を食い始めたのだろうか...
しかし、ドリームチャンスでの結末は、残念というか、当然というか、ドラマは大きく逆に舵が取られてしまった。
冴島は、銀河テレビに復帰することを諦め、美野里を本当の子供だと「ウソ」をつくのだが、何故かそれが「正解」となってしまうのだ。結局、彼女は、テレビ局社員という地位も子供も両方ともキープするという結果に落ち着くのであった。
すなわち、このドラマの中でテレビ局の過剰な報道姿勢は、現代社会の中では必要だと、(低く見積もっても必要悪だと)判断されたのである。そして、親子愛という誰も否定できない物語の影で、テレビの報道と、社員の美味しい生活は正当化されるという、平凡なオチとなってしまったのであった。
やはり、何かを捨てきれないテレビ、その老獪なしぶとさは、ヒールのプロレスラーのようでもある。
しかし、僕はその老獪さにも惹かれるものを感じてしまうのだが。
ちなみに、マスコミの報道に対する姿勢に関しては、以下のような記事を紹介しておきたい。

私個人の気持ちをいえば、取材の電話をかけてきてくれたのはありがたいことだけれども、なぜそこまで人を誘導尋問で引っかけて、私が考えてもいないことをコメントとして掲載しようと思うのかが、もうわからない。取材者と取材対象の信頼関係なんかどうでも良くて、自分が作ったシナリオ通りに相手をしゃべらせればそれでオッケーという神経が、どうにも理解できない。
週刊誌記者の取材に心が汚れた(佐々木俊尚 ジャーナリストの視点 )より

まさむね

書評, 歴史・家紋 »

[6 6 月 2009 | 4 Comments | | ]

太田光と中沢新一のベストセラー対談「憲法九条を世界遺産に」を読み返してみた。太田光の知性は80年代ポストモダンの旗手の一人、中沢新一を相手にしても一歩も劣らない。
彼はしかも、テレビタレント、あるいは漫才師という、学識や哲学とは全く別の芸能者としても超一流というのだから、恐れ入る。
先日のエントリーでも書いたが、そんな彼に凡庸なバラエティ芸人の話相手をさせる「キズナ食堂」という番組は、何を考えているのだろうかと思わざるを得ない。
まぁそれはともかく、今回読み返した「憲法九条を世界遺産に」であるが、僕は中沢新一の次の発言にちょっとひっかかってしまった。ちょっと長いが、引用してみよう。それは太田が中沢に、女性天皇について尋ねた次の答えの部分だ。(133ページ)
男系相続が天皇制の本質を決めているかというと、違うんじゃないかと思います。天皇制そのものが、時代ごとに性格をごろっと変えていますしね。中世の天皇制と今の天皇制ではこれが同じ天皇制かと思うくらい違いますし、江戸時代の天皇制、明治時代の天皇制も今とは違う。それくらい柔軟に性格を変えてきている。その中で男系相続と、伊勢神宮の儀式だけが変わらず残った。しかしこの二つだけをとらえて、天皇制の不変の原理と語ってしまうのは少し違うんじゃないかと、僕は思っているんです。
男系相続だけで天皇制の本質を通してしまったら、天皇制自体がすごく貧しくなるんじゃないか。歴史を通してこんなにも現実に柔軟に対応してこられたというのは、きまった本質というものがないからじゃないでしょうか。矛盾をあわせのむトリックスターみたいなものですね。お笑いの本質にも近いところはあります。その意味では、天皇制というのは、巨大なトリックスターです。その本性はお笑いだと僕は思っているんだけれど、それくらい柔軟に生き抜いてきたものの本質を、男系だけで決定はできないだろうと思っています。つまり、女性天皇もありです。
中沢氏は、天皇制を一見尊重しているようだが、伝統というものの危うさ、あるいは脆さというものにどれだけ自覚的なのだろうか。あるいは、それを知っていて敢えて、天皇制にある意味、賛成しながら、究極的には天皇制そのものをなくそうとしているのだろうか。
彼がいうところの、天皇制が歴史的に様々な変遷をしてきたというのは理解できる。また、天皇制自体がトリックスターであるという発言もある意味、そうだと思う。また、大人計画の舞台「ゲームの達人」に出てきた宮藤官九郎扮する天皇仮面を例に出すまでもなく、天皇制ほど、お笑いにして可笑しい存在はいないというのもわかる。
しかし、僕が違和感を感じるのは、中沢氏の発言には、歴史の中で、天皇制を必死に守って来た愚鈍なほど素朴な人々の意思の強さというものが急激に崩れつつあるという危機感が感じられないことだ。さらに、彼の発言には、そうやって天皇制を守ってきた人々に対する尊敬の念が全く感じられないのである。
言うまでもないが、天皇制は日本オリジナルの共同幻想である。しかし、共同幻想というものは時にあまりにも脆いものだ。強固な存在にちがいないと思って、まるで子供のように、その周辺で、その存在を笑い、茶化し、はやし立てていると、ある日気づくと、その本体自体が丸裸になっているようなものではないのか。
だからこそ、いたずらに弄ってはいけないのだ。現代の価値観とは合わないからといって、作為的に動かしてはいけないのだ。
僕は個人的には天皇には、京都に帰っていただき、出来るだけ人目から隠れて神事に没頭するような存在でいて欲しいと思う。
大臣の任命、ましてや国体での挨拶などは、摂政がすればいい話だと思っている。
僕たちの俗的な価値観とはまるで違う価値で生きている人がこの国のどこかにいて、必死に僕たちのことを祈っていてくれている、そういう存在であって欲しいのだ。
そして、結果として、女性天皇が生まれてもそれはそれでいい。それは天皇家が決めることだと思うのだ。
勿論、それは難しいことかもしれない。そして時代は、古来からの伝統に対して、ますますタフになっていくだろう。
そして、そんな状況の中、古来残っている伝統が、強固に、しかも柔軟でありつづけることはさらに難しいことだと思う。
僕は、天皇制について考えると何故か、憂鬱になる。中沢新一にはそういった僕の憂鬱がわかるのだろうか。
まさむね

芸能 »

[4 6 月 2009 | 2 Comments | | ]

木村拓哉のことをキムタクと呼んでもいいのだろうか。
ちょっと前の話だが、読売テレビの『たかじんのそこまで言って委員会』でアナウンサーの辛坊次郎氏は「関西ではキムタクと言ってもいいが関東ではキムタクと書いてある新聞の見出しを読む時でも木村拓哉(きむら たくや)と読まないといけない」というようなことを言っていた。
しかし、ぼくの記憶では、確か、タモリは木村拓哉のことを、キムラと呼び捨てにし、明石屋さんまや爆笑問題は平気でキムタクと呼ぶ。
おそらく、本人は微妙に嫌か?なくらいは感じているかもしれないが、黙認しているのではないか。
しかし、テレビ局のアナがキムタクを避けるのは、これは、力のある(あると思われる)者におもねるただの自主規制ではないのだろうか。勿論、アナウンサー達は、何でもかんでも勝手な発言を出来るわけではないのは理解できるが、過剰に自主規制するのはどうかと思う。そこには、表現の自由という発想とは程遠い、思考を止めた事なかれ主義すら垣間見られるからだ。
       ★
では、事務所はどう思っているのか。僕は、一部で思われているほどには、気にしていないような気がする。あるいは、それを追認しているように思える。
それが証拠にdocomo検索で「キムタク」と入力すると、ジャニーズ事務所の公式サイト「Jonny’s Web」がトップに表示されるのである。ということは、このサイトの少なくともMETAタグ(あるいはその他の隠れ定義文)に、「キムタク」という文字が定義されているにちがいからである。
ちなみに、同様にツヨポンと入力しても「Jonny’s Web」がトップに表示される。しかし、シングやゴロウチャン、ナカイクンでは検索されなかった。
       ★
まぁ、今日は、いつにも増してどうでもいい話であった。反省。
まさむね

社会問題 »

[3 6 月 2009 | 5 Comments | | ]

雇用問題というのは、自分達の世代にとって、最も触れたくない問題の一つである。
自分達の世代というのは、現在40代後半~50代前半の世代という意味だ。
ちなみに、僕は1959年生まれで、現在49歳である。
では、何故触れたくないのか。それは、最近の若年層の雇用状況、すなわち失業問題やワーキングプア問題の根本的な原因の一つに、我々の世代の安定雇用のしわ寄せが若者に行っているという問題があるからだ。
現在の雇用問題の本質は、実はパイの奪い合い問題だと僕は思っている。
勿論、そういった世代間対立を、連合などの労働組合は隠そうとする。この問題をいまだに資本家と労働者の対立が原因だと言い張ろうとするのだ。
勿論、大企業の役員達の報酬がここ数年で暴騰したというような話を聞いたことがある。森永卓郎氏などがいつも言う話だ。しかし、現代の雇用問題の本質は労使問題という「おとぎ話」にはもう付き合えないという感じが僕にはする。今は1970年代ではないのだ。
あるいは、この世代間対立を、新自由主義のせいにしようとする人々もいる。そういった人々は、日本の古来からの良き伝統とやらを持ち出し、それを壊したのが新自由主義だと言う。しかし、はたしてそうなのだろうか。例えば昭和初期の普通の中小企業の社長は、社員の生涯の生活を守るために、終身雇用を守ろうとしたのだろうか。これらの慣行(らしきもの)は高度経済成長期、つまり企業が労働力を欲しくて欲しくてたまらなかった時期に、社員に逃げられないために考え出した餌にすぎなかったのではないか。
何に関してもそうだが、その起源が忘れ去れて、あたかもずっと続いてきた伝統のように感じられてしまう慣行、観念にもっと敏感になる事、歴史を学ぶとは本来そういった感性を養うことである。
しかし、こんな事を僕が言ったとして、自分で自分の身を切れるのだろうか。それがこのエントリーの問題提起である。正規雇用に守られた中高年は、じゃあどうすればいいのか。その具体的な身の処し方を教えて欲しい。
とりあえず、風当たりが自分に向かないように身をすくめていればいいのか。
あいもかわらず、最近の若者は覇気がないと、加齢臭を振り撒きながら息巻けばいいのか。
それとも、上記のように、問題をすりかえて、経団連、組合、新自由主義者などを仮想敵として攻撃する身振りを見せればいいのか。
あるいは、若者達の「何倍」も働こうと、とりあえず、意欲を燃やし、結果、腰でも痛めるべきなのか。
とりあえず、世の流れに身を任せて、これが社会というものだと達観すればいいのだろうか。
僕にはまだ答えが無い。
まさむね

テレビドラマ »

[2 6 月 2009 | 2 Comments | | ]

TBSの日曜劇場「ぼくの妹」が僕の興味をひきつけ続けて止まない。(「双子の妹を持つ僕にとっても気になる『ぼくの妹』」)
決して「面白いよ」と勧めるタイプのドラマではないのだが、ドラマで描かれている世界と、こちらの現実世界との距離が微妙に他のドラマとは違う、とでも言うべきか、ユニークなのである。
例えば、今クールのドラマとして、「クイズ・ショウ」や「Mr.Brain」等は、シナリオがあって、それを役者が演じて、それをカメラで撮影して編集してという流れが透けて見えるのに対して、この「ぼくの妹」はそういったアチラの制作構造を上手く隠しているのだ。
ごめん、わかりにくいよね。簡単に言えば、画面の向こうにもう一つ別の世界が存在している感じが強いというのか、その世界の一部をとりあえずカメラで切り取りましたという感じがするのである。
ごめん、まだわかりにくいよね。ようするに、それってストーリーがストーリーになっていないということ、少なくとも、テレビの連続ドラマ的ではないということなのである。
例えば、「クイズ・ショウ」では、最終回に向かって、多分、MC神山(櫻井翔)とディレクター本間(横山裕)、プロデューサー冴島涼子(真矢みき)、謎の美少女(水沢エレナ)の過去の関係が段々解明されていくんだろうなというような大筋が読めるし、「Mr.Brain」では、毎回、脳科学者の九十九龍介(木村拓哉)が事件を解決してくんだろうなという展開は当然、期待できる。
しかし、「ぼくの妹」はそういった予定調和的な展開を裏切り続けるのだ。現時点ではこの先どうなっていくのかの大筋も読めないのである、少なくとも僕には。話がその都度発生する任意の出来事にどんどん引きずられていく感じがするのである。
優秀な外科医(オダギリジョー)がふとしたことで知り合った女性(ともさかりえ)と関係を持ち、借金を迫られ、それが嘘だとわかり、その女性はビルの屋上から飛び降り、その女性の彼氏(千原ジュニア)に恨まれ、それを晴らそうとする過程で知り合った親切なおじいさん(大滝秀治)が実はその彼氏の父親だということを知り、さらに、その彼氏と自分の妹(長澤まさみ)が寝てしまう...ようするに話が蛇行しながら進む感じなのである。しかし、この展開は、現実の世界と似ていて、妙なリアリティがあるのだ。
そして、その世界に翻弄されるオダギリジョーに妙な親近感を抱いてしまうのである。その昔、オダギリは、クレジットカード(ライフカード)の宣伝CMでも、会社の上司や彼女等に翻弄される役をやっていたが、元々、翻弄キャラなのだろう、オダギリって。
       ★
わけのわからない男{妹の不倫相手・瀬川欽也(田中哲司)}や女{病院の理事長の娘・大河原春菜(笹本玲奈)}に好意を寄せられたり、こうあってほしいと願っている妹(長澤まさみ)が全くその通りに動いてくれなかったり、勝手な勘違いである男(千原ジュニア)に逆恨みされたり、しかし、その男が妹と寝てしまったりと、そういった思うようにならない現実の不条理に振り回される、ある意味、カフカ的な嫌~な感じ、それがこの「ぼくの妹」の主題なのだろうか。
そういえば、この作品の脚本を手掛ける池端俊策は、元々今村昌平の脚本助手をしていたというが、カンヌでパルム・ドールを受賞した今村の『うなぎ』で、主人公(役所広司 )がある男(柄本明)に、凄く、嫌~な感じでつきまとわれるシーンが出てくる。それは、この『ぼくの妹』の嫌~さ加減と共通しているようにも思えるのだ。ただし、僕は、この「嫌~な感じ」は嫌いではない。勿論、好きでないが、社会派作品独特のリアリティとして十分認めたいと思うのである。
       ★
しかし、この嫌~なドラマが「明日から頑張るぞ」と張り切る多くの善男善女がテレビの前に座る日曜日の夜に放送するような代物だろうかという疑問がないわけではない。いや、当然ある。そして、こんなところにも迷走するTBSの昨今の編成の乱れ(「TBSの断末魔こそ、今のテレビで最高の見世物だ」参照)が垣間見れるのだ。
ちなみに、この時間帯の居心地の悪さを含めて、このドラマを楽しめてしまう僕って相当、嫌~な奴だなぁと自分でも思う。
まさむね

TV番組 マスメディア »

[1 6 月 2009 | No Comment | | ]

去年から今年にかけてのTBSの迷走ぶりはそれ自体が一つの番組=見世物である。
例えば、自社が制作または投資した映画の過剰な宣伝番組。朝から晩までその映画に出演する俳優達が登場し、インタビューや中途半端なおふざけ芸とともに、映画を宣伝しまくる。直近では「ROOKIES」のそれが突出して異常だ。一昔前ならば、「公共の電波でそこまで~」という理性的制御、あるいは慎み深さがあっただろに、最近はそういった自主規制が全く見られないなりふりかまわない横暴だけが目に余るといった感じだ。放送免許という既得権益を彼らから一度、剥奪すべきという意見もあながち過激とはいえないような状況である。
勿論、作品としての「ROOKIES」に関しては、僕は大好きだ。昨年は病気療養中だということもあって、テレビでも再放送も含め何度も見て、さらに、YOUTUBEやネット上の不法配信も含め、何度も涙を流させていただきました。
加えて、家の近くの漫画喫茶に通い、単行本も読破。久々にハマった作品であった。
しかし、今年、仕事に復帰し、そういった喧騒から若干距離を置いた位置から「ROOKIES」騒ぎを眺めてみると、なんとも暑苦しく傲慢に感じるのは気のせいだろうか。(ただ、映画は観たいとは思っているが。)
また、映画の宣伝局という面に加えてさらに、突出してきたのが不動産屋としてのTBSという側面だ。「赤坂サカス」という模擬店の宣伝番組がなんと多いことか。「うたばん」もそのうち、田中義剛と東国原知事の背中におぶさった地域振興というキャッチフレーズの陰に隠れたテレビショッピング番組に成り下がりはしないかと今から心配しているのは僕だけであろうか。
さて、そのTBS、番組の作りも雑になってきていることは去年から指摘(TBS 、大丈夫か?)してきたが、今年は、特番だけでなく、帯の報道番組、通常の連続番組にもその雑さは浸透してきているように思う。
「総力報道!THE NEWS」に関しては、ウィークデイ番組のため、あまり見れないので何とも言いようがないのだが、視聴率だけ見る限り、苦しそうだ。小林麻耶の起用は、誰をターゲットとしたものか、何を目的にしたものかが全く不明だ。最近では彼女にも笑顔が戻ったという話も聞くが、少なくとも4月放送時にはただ、緊張した人形という趣だった。
また、土曜日に放送を開始した「キズナ食堂」、爆笑問題がホスト役のトーク番組であるが、太田のゲスト(そして人間そのもの)に対する関心の低さがそこかしこに出ていて、見ていてつらい。
確かに、太田光は、現時点では日本のテレビ界の至宝とでも言うべき、存在である(「桜の欺瞞性と太田光夫妻」「太田光と森のくまさん」)が、その至宝が全く生かされていないのだ。
もともと、太田光は、世界や思想、小説、映画にしか関心がなかったサブカル青年だ。そんな彼を無理やり、レベルの低いタレント達のつまらない体験談の相手役をさせるというのは、どういう企画意図があるのだろうか。そんなことはクリームシチューにまかせておけばいいのだ。
万が一、番組の見せ所が、太田光の独特のボケの際に、一瞬垣間見せる悪意と上から目線のいやらしさというのなら、それはそれでわからないではないが、7時から放映するには、あまりにもマニアックではないのか。
       ★
最近、あまりテレビを見る機会が減ってしまい、それはそれで残念ではあるが、逆に見えてくることもある。冒頭にも書いたが、最近のテレビで何が一番、面白いかと尋ねられたら、「視聴率、営業利益ともに落ち込んでいるTBSの断末魔の社内状況が番組内容にそのまま反映されているその様自体が、もともとスキャンダラスを本質とするテレビというメディアの現在のあり方を写している点で、面白い見世物になっていますよ」というしかない。
まさむね