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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]
紅葉紋 -敢えて散りゆく紅葉を選ぶ粋な美意識- 福沢諭吉、市川門之助、泉鏡花...

見渡せば花も紅葉もなかりけれ裏の蓬屋の秋の夕暮れ  藤原定家
日本の美意識を代表する紅葉は平安の昔から公家の好みだった。
藤原北家の閑院流の今出川家の代表紋である。
しかし、武士の世になるとこの紋は広まらなかった。
やはり、散りゆく紅葉は嫌われたに違いない。
しかし、それでも敢えて紅葉を選んだ粋な人々がいたことは記憶に留めておきたい。
だから、全国的にはどの地域でも30位に入っていない。
使用している有名人は以下。
福沢諭吉。1835年1月10日- 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。
東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。
代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。
写真は息子の福沢百助の墓で撮影。

市川門之助。1862年 - 1914年8月20日、歌舞伎役者。
出雲国(現在の島根県)松江の出身。本名・荒川清太郎。
『大森彦七』で師の彦七に千早姫をつとめ生涯最大の当り役となる。
「酒屋」のお園、「鏡山」の尾上などの丸本物を得意とした。
家紋は、四つ紅葉。画像は雑司が谷霊園の墓所にて撮影。

いわゆる楓(紅葉)のデザインではないが、尾崎紅葉の弟子の泉鏡花は、師匠の恩義から、敢えて源氏香紋の「紅葉の賀」を家紋として使用した。ちなみに、尾崎紅葉自身は違い鷹の羽紋である。
泉鏡花。1873年11月4日 - 1939年9月7日、小説家。
石川県金沢市下新町に生れる。
父・清次は、加賀藩細工方白銀職の系譜に属する象眼細工・彫金等の錺職人。
尾崎紅葉の『二人比丘尼 色懺悔』を読んで衝撃を受け、文学に志すようになる。
代表作は「高野聖」「草迷宮」「婦系図」など。
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団扇紋 -悪鬼を払い、霊威を呼び寄せる神具- 奥平信昌、加藤高明、久米宏...

団扇紋にはいくつか種類がある。
1)普通の団扇(うちわ)紋
2)大相撲の行司が持つのと同じ、軍配扇紋
3)天狗が持つという羽団扇紋
この中で数が多いのが軍配扇紋。
平安時代の武士勃興時代に関東で幅を利かせた児玉党武士団が使用しはじめたといわれる。
多くの家紋の中でも歴史が古い部類に入る。
軍配の采配一つによって、自らの武士団の運命が左右される重要な道具だ。
と同時に、古くから悪鬼を払い、霊威を呼び寄せるという意味合いで、神事などにも用いられてきたのである。

羽団扇紋(左画像)は、駿河の浅間神社の神紋として知られている。
浅間神社は木花咲耶姫命を奉っているが、富士山信仰と深い結びつきがある。
団扇紋を使用はそれほど多くない。全国分布では、福井県で27位、埼玉県で28位。
有名人は以下。
米津常春。1524年 - 1612年、武将。
三河国碧海郡米津出身。幼名は藤蔵。米津氏は松平氏の譜代の家臣。徳川十六神将に数え桶狭間の戦いの際にも三河衆の先鋒として従軍。子孫は武蔵久喜藩、出羽長瀞藩主として明治まで存続。家紋は米津羽団扇紋。画像は東久留米・米津寺にて撮影。

奥平信昌。1555年 - 1615年4月11日、武将。
三河国の有力国人・奥平貞能の長男。徳川家康の長女・亀姫を正室としたので、家康の娘婿として重用される。長篠の合戦時に、長篠城で篭城し武田軍を苦しめる武功を上げ、信長より信昌という名前を賜る。奥平家は、豊前国中津藩幕末をむかえる。

児玉源太郎。1852年4月14日 - 1906年7月23日、武士、陸軍軍人。
周防国都濃郡徳山村出身。徳山藩の中級武士(百石)兒玉半九郎の長男。日露戦争全体の戦略の立案を担当。最終階級は陸軍大将。「太陽にほえろ!」等のテレビ映画監督で有名な児玉進は曾孫。家紋は唐団扇笹紋。画像は多磨霊園で撮影。

加藤高明。1860年1月25日 - 1926年1月28日、外交官、政治家。
尾張藩の下級藩士・服部重文、久子の次男として出生。正二位 大勲位 伯爵。第24代内閣総理大臣となり、首相在任中に治安維持法、普通選挙法を成立させ日ソ基本条約を締結。ソ連と国交を樹立させる。家紋は六つ唐団扇紋。画像は青山霊園にて撮影。

万年東一。1908年9月10日 - 1985年3月28日、活動家、総会屋。
山形県飽海郡松嶺町で生まれ。終戦後、愚連隊・万年一派の頭領となる。その後、松永高司が全日本女子プロレスを設立すると、初代会長に就任。右翼団体「大日本一誠会」を結成。総会屋としても活動する。家紋は、丸に羽団扇紋。

久米宏。1944年7月14日 - 、アナウンサー・タレント・司会者。
埼玉県浦和市出身。戦時中は埼玉県児玉郡(武蔵七党・児玉党の本貫)に疎開。嫡流・久米氏は唐軍扇紋。祖・時国の時に佐渡流罪の日蓮を久米川まで見送った事から久米氏を称するようになった。代表司会番組『ザ・ベストテン』『報道ステーション』等。

鞍馬天狗。幕末期、勤王志士。
大佛次郎の大正・昭和期における時代小説の主人公。幕末期を舞台にし剣は一刀流の凄腕。時には短筒も使う。その素性は謎が多く天狗党の生き残りではないかと言われた。何度も映画化され特に嵐寛寿郎が主役の映画作品は有名。画像は鞍馬寺の寺紋。
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[18 1 月 2009 | Comments Off | | ]
車紋 -車輪に隠れる六条御息所の怨念- 榊原康政、石坂洋次郎、佐藤栄作...

この紋の図柄を見ると、車紋というよりも車輪紋である。
言うまでもなく、車輪というのは乗り物を、そして乗り物に乗っている人を支えるものである。
車紋の使用氏として一番有名な一族は藤原秀郷流の佐藤氏であるが、一族の中で「人を支えた」人物と言えば、源義経に遣えた佐藤継信、忠信兄弟を思い出す。
また、車紋は別名、源氏車とも言われている。
また、源氏車といえば、「源氏物語」9帖の『葵』における六条御息所と葵上の車争いを連想させる。そして、その車争いで敗れた六条御息所の怨念が車に取り憑き、朧車という妖怪になったという伝説もある。左図は鳥山石燕『今昔百鬼拾遺』より。
車紋の車輪はただの車輪ではない。様々な人々の思いがつまっているのだ。
また、車紋の別種として、水車紋、杓車紋も一緒に掲載。
さらに、高澤等氏の卓抜な説によると、日足紋は、源氏車紋から転化したものだという。(詳細は「家紋の事典」)そのためここでは日足紋も車紋の一種として取り扱う。
    ◆
さて、この紋は全国ではそれほど、普及している紋ではない。ただ、東北地方では散見される。
特に、秋田県では18位だ。
これは秋田県で、佐藤姓が多い事と関係していると思われる。
また、東北地方以外では唯一三重県でベスト30位に入っている。これはこの地が伊勢神宮のお膝元だからか。
車紋を持つ有名人は以下。

佐藤継信。1158年? - 1185年3月22日、源義経の家臣。
出身は奥州信夫郡。佐藤忠信の兄。義経が挙兵した源頼朝の陣に赴く際、藤原秀衡の命により弟・忠信と共に義経に随行し平氏追討軍に加わった後、屋島の戦いで討ち死にした。写真は福島県福島市飯坂町の井王院にある墓所の門の写真。

龍造寺隆信。1529年3月24日 - 1584年5月4日、肥前の大名。
龍造寺家兼の孫に当たる龍造寺周家の長男。本姓は藤原氏。五州太守の称号を好んで用い「肥前の熊」ともいわれた。大友氏を破り島津氏と並ぶ勢力を築き上げたが島津・有馬氏の連合軍との戦いで敗死。家紋は日足、剣花菱、杏葉。

中川清秀。1542年 - 1583年6月10日、戦国時代の武将。
清和源氏頼光流の多田源氏の後裔。はじめ摂津の豪族・池田勝正に仕えた。本能寺の変で信長が横死した後は羽柴秀吉に従い山崎の戦いで活躍した。賤ケ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが戦死。家紋は中川車(右)、中川柏(左)

榊原康政。1548年 - 1606年6月19日、武将・大名。
榊原氏は三河・伊勢・伊賀守護仁木義長の子孫である。家康の家臣として姉川、三方ヶ原、長篠、小牧・長久手の戦いになど数々の戦いで戦功を立てた。上野国館林藩の初代藩主。徳川氏の家臣。康政流榊原家初代当主。家紋は榊原源氏車。

服部半蔵。戦国時代から江戸時代初期、武士。
松平氏~徳川氏の麾下で活躍。半蔵門の由来となる。「伊賀の影丸」「あずみ」などのフィクションに登場。藤子不二夫の「忍者ハットリくん」は服部半蔵の子孫。家紋は、源氏輪に並び切り竹矢筈。画像は護国寺の別の服部家の墓所にて撮影。

土井利勝。1573年4月19日 - 1644年8月12日、譜代大名。
水野信元の三男として生まれるが後に土井利昌の養子になる。家康の落胤という説もある。家光の治世には大老として寛永通宝の鋳造等の新通貨制度を制定。画像は利勝の三男で越前大野藩主となった利房系の土井利恒の墓所にて撮影。丸に六柄杓車紋。

佐藤信淵。1769年7月18日 - 1850年2月17日、思想家、経世家。
出羽国雄勝郡郡山村出身。通称は百祐。平田篤胤に入門し、『農政本論』を著す。渡辺崋山、高野長英、小関三英とともに蛮社の獄に連座するがすぐに許される。流通を幕府の手によって直接統制し、流通過程からの収奪による富国策を提示。家紋は源氏車。

猪山直之。1812年 - 1878年、金沢藩士。
幼名:余四郎、通称:弥左衛門、彦蔵。前田斉泰、慶寧、利嗣御次御用をつとめる。45年間にわたって直之によって書かれた日記は磯田道史氏によって「武士の家計簿」としてまとめられヒットとなり映画化もされる。家紋は丸に生駒源氏車紋。

佐藤政養。1821年12月 - 1877年8月2日、蘭学者。
出羽国飽海郡升川村の農民・佐藤与兵衛の長男。通称:与乃助。幕府軍艦操練所蘭書翻訳方となる。神戸海軍操練所を司り幕閣に神奈川に代わる横浜開港を建議した。維新後は新橋-横浜間の鉄道敷設に尽力。家紋は陰源氏車紋。画像は青山霊園にて撮影。

佐藤彦五郎。1827年11月14日 - 1902年9月17日、新選組後援者。
武蔵国多摩郡日野宿で生まれる。日野本郷名主。自邸東側の一角に日野宿では初となる出稽古用の道場を設け、後の新撰組の母体となる近藤勇、土方歳三、沖田総司らが出稽古に訪れていたという。明治維新後は、新選組隊士の復権と顕彰に尽力した。

榊原健吉。1830年12月19日 - 1894年9月11日、幕臣、剣客。
江戸麻布の広尾生まれ。父は御家人榊原益太郎友直、5人兄弟の長男。 名は友善。男谷信友から直心影流男谷派剣術を継承した。天覧兜割などで知られ、「最後の剣客」と呼ばれる。家紋は榊原車。画像は新宿須賀町・西応寺の墓所にて撮影。

石丸安世。1839年 - 1902年、佐賀藩士、官吏、政治家。
佐賀郡本庄村出身。工部省の初代電信頭として東京-長崎間の電信開通を担当した。鉄道の井上勝、郵便の前島密、電話の石井忠亮と並ぶ「逓信四天王」の一人。大阪造幣局長や元老院議員を務めた。家紋は剣形十二日足紋。画像は青山霊園にて撮影。

竹添進一郎。1842年4月25日 - 1917年3月29日、外交官・漢学者。
熊本藩出身。熊本藩士として藩命により国事に奔走。維新後、天津領事となる。1882年の壬午の変の後、朝鮮弁理公使となり、甲申政変を起こす。東京大学教授となり、『桟雲峡雨日記』『左氏会箋』を残す。家紋は源氏車紋。護国寺にて撮影。

佐藤進。1845年12月23日 - 1921年7月25日、医師、医学者。
常陸国太田内堀で醸造業高和清兵衛の長男として出生。独留学し医学士の学位を取得。戊辰戦争では新政府軍の病院頭取を務めた。西南戦争、日清戦争、日露戦争において軍医監を務める。順天堂医院院長。家紋は源氏車紋。画像は文京区吉祥寺にて撮影。

清浦奎吾。1850年3月27日 - 1942年11月5日、政治家。
肥後の鹿本郡来民村出身。旧姓は大久保。司法官僚を経験後、貴族院議員となり司法大臣、農商務大臣、枢密院議長を歴任。第23代内閣総理大臣となるが超然主義との非難を受け、5ヶ月で総辞職した。家紋は八つ剣日足紋。画像は総持寺にて撮影。

林董。1850年4月11日 - 1913年7月20日、外交官、政治家。
下総国佐倉藩の蘭医・佐藤泰然の子として生まれ、幕府御典医・林洞海の養子となる。香川・兵庫の県知事、ロシア・イギリスの駐在公使、外務大臣、逓信大臣などを務めた。ロンドンで日英同盟に調印。家紋は源氏車紋。画像は青山霊園にて撮影。

河口慧海。1866年2月26日 - 1945年2月24日、仏教学者、探検家。
泉州堺出身。読みは、かわぐちえかい。ネパール、チベット地域を探検。ネパールでは梵語仏典を、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集した。主著は『西藏旅行記』『チベット旅行記』。家紋は源氏車に法の字紋。画像は青山霊園にて撮影。

佐藤鉄太郎。1866年8月22日 - 1942年3月4日、海軍軍人。
出羽国鶴岡出身。実父は庄内藩士・平向勇次郎。佐藤安之の養子となる。日本海海戦ではロシア艦隊の偽装転進を見破り勝利に大きく貢献する。最終階級は海軍中将。退役後は、学習院教授を経て貴族院議員となる。画像は多磨霊園にて撮影。

野中到。1867年9月19日 - 1955年2月28日、気象学者。
福岡に生まれる。富士山頂で最初の越冬観測を試みた。著作に『富士案内 芙蓉日記』がある。橋本英吉の『富士山頂』や新田次郎の『芙蓉の人』といった小説の題材にされる。家紋は御殿場馬車鉄道の社章からの転用か?画像は護国寺にて撮影。

佐藤北江。1869年12月22日 - 1914年10月30日、新聞記者。
陸中盛岡藩出身。本名は佐藤真一。自由民権運動で活躍後、「岩手新聞」を経て、「めさまし新聞」に入る。改題後、「東京朝日新聞」で編集長、社会部長を務めた。石川啄木を校正係に採用してことで知られる。家紋は源氏車紋。画像は青山霊園にて撮影。

大下宇陀児。1896年11月15日 - 1966年8月11日、探偵小説作家。
長野県上伊那郡箕輪町出身。本名は木下龍夫。『新青年』を舞台に江戸川乱歩や夢野久作と並ぶ人気探偵小説家として活躍。NHKの人気ラジオ番組『二十の扉』の解答者としても知られる。家紋は丸に片輪車紋。画像は多磨霊園にて撮影。

佐藤惣之助。1890年12月3日 - 1942年5月15日、作詞家。
神奈川県川崎市出身。佐藤家は川崎宿の本陣を預かる家柄。佐藤紅緑に師事し俳句を学ぶ。作曲家、古賀政男と組み多くの楽曲を世に送り出す。代表作は『赤城の子守唄』『大阪タイガースの歌』『人生の並木路』『人生劇場』等。家紋は源氏車紋。

石坂洋次郎。1900年1月25日 - 1986年10月7日、小説家。
青森県弘前市代官町出身。戦後は『青い山脈』を『朝日新聞』に連載。映画化され大ブームとなり「百万人の作家」といわれる。第14回菊池寛賞を受賞。代表作は『陽のあたる坂道 』『若い人』など。家紋は源氏車紋。画像は多磨霊園にて撮影。

佐藤栄作。1901年3月27日 - 1975年6月3日、政治家。
山口県熊毛郡田布施町出身。酒造業・佐藤秀助の三男。第61、62、63代内閣総理大臣。日韓基本条約の批准、小笠原諸島・沖縄返還を実現させる。非核三原則で日本人で初めてノーベル平和賞を授賞。画像は本願寺・和田堀廟所にて撮影。

高柳重信。1923年1月9日 - 1983年7月8日、俳人。
東京市小石川区生れ。富沢赤黄男に師事。金子兜太とともに前衛俳句の旗手となる。俳誌「俳句評論」代表、総合誌「俳句研究」(俳句研究新社)編集長を歴任。夏石番矢らを見出した。家紋は熨斗の丸に半源氏車紋。画像は冨士霊園にて撮影。

三遊亭小圓遊(4代)。1937年8月3日 - 1980年10月5日、落語家。
群馬県前橋市出身。本名は関根尚雄。『笑点』の大喜利メンバーとして知られる。10枚座布団の賞品としてレコードを吹き込む(タイトル「マドモアゼル」)。桂歌丸と共に落語芸術協会理事就任。家紋は八つ水車紋。画像は寛永寺第二霊園にて撮影。

佐藤洋太。1984年4月1日 - 、プロボクサー。
岩手県盛岡市出身。中学時にボクシングを始める。協栄ボクシングジム所属。WBC世界スーパーフライ級王者。元日本スーパーフライ級王者。2012年3月27日、判定勝ちを収めて世界王座を奪取。左腕に佐藤家の家紋の八本骨源氏車の刺青を入れている。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]

人間のとって最も大事なものは生命の源・水である。
古来、人々は、その水が地中から湧き出る泉、そして井戸をどれだけありがたがったことであろうか。
この井桁紋、井筒紋は、そんな日本人の地から湧き出る水の神秘さと感謝を紋所にしたものである。
また、井戸は冥土との通り道との俗信もあった。小野篁が井戸から地獄の閻魔大王の元に通っていたという伝説や、能楽の「井筒」の物語もそんな中の一挿話である。
井桁紋は菱形、井筒紋は正方形。
全国で27位の分布。特に鹿児島県(15位)、和歌山県(18位)、群馬県(19位)で多く見られる。
使用している有名人は以下。
住友政友。1585年12月31日 - 1652年、商人。
越前国丸岡出身。住友政行の次男。住友財閥の祖。平家の末裔といわれている。京都では富士屋嘉休と名乗り薬舗・書林の店「富士屋」を開いた。商人の心得を説いた『文殊院旨意書』を残し、その教えは今も住友精神の基礎となっている。

三井高利。1622年 - 1694年5月29日、商人。
六角氏の旧臣・三井高安の長男・高俊が武士を捨て伊勢国松坂で質屋と造り酒屋を開業。三井家の姓は藤原。三井家の基礎を築き江戸本町に呉服店を開業。屋号を越後屋(後の三越)とし、後に両替商も開業。家紋は井桁に三の字と四つ目結紋。

北村季吟。1625年1月19日 - 1705年8月4日、俳人、和学者。
近江国野洲郡北村出身。祖父の宗竜、父の宗円を継いで医学を修めた。『土佐日記抄』、『伊勢物語拾穂抄』、『源氏物語湖月抄』などの注釈書を著す。俳諧は貞門派。山岡元隣、松尾芭蕉、山口素堂など優れた門人を輩出する。家紋は丸に平井桁紋。

司馬江漢。1747年 - 1818年11月19日、絵師。蘭学者。
本名は安藤峻。鈴木春重とは同一人物。浮世絵師から洋風画家に至る。天文・動植物など西洋博物学に興味を持ち日本に紹介。『和蘭天説』『刻白爾(コッペル)天文図解』等を著す。家紋は六つ追い重ね井筒紋。画像は巣鴨・慈眼寺にて撮影。

三輪田米山。1821年2月12日- 1908年11月3日、書家。
伊予国久米郡の日尾八幡神社神官三輪田清敏の長男に生まれる。また、明治天皇の侍候を務め書の訓導にあたった。義理の妹・三輪田眞佐子は三輪田女学校(現三輪田学園中学校・高等学校)の創立者。家紋は井桁に木瓜紋。青山霊園にて撮影。

並木胤繁。1825年 - 1871年、剣豪。
武州田無村出身。千葉周作の北辰一刀流で免許皆伝する。一般的に、多摩地域は天然理心流の地盤といわれているが田無村は北辰一刀流の流れが根付かせる。門下生が建てた墓(画像)が田無芝久保墓地に残っている。家紋は井桁に花菱紋。

真木長義。1836年6月28日 - 1917年3月3日、海軍軍人。
佐賀藩士・藩医200石、真木長澄の長男として生れる。長崎海軍伝習所で学び、「電流」艦長として戊辰戦争に従軍。海軍中将、海軍機関学校長、宮中顧問官、伏見宮別当、貴族院議員を務めた。家紋は井桁に蔦紋。青山霊園の墓所にて撮影。

今井信郎。1841年11月14日 - 1919年6月25日、武士。
幕府講武所の柔術師範だった窪田鎮勝から扱心流体術を習い、榊原鍵吉から直心影流剣術を習い、講武所の剣術師範代を勤めた。京都見廻組に参加し、近江屋事件で暗躍。近江屋事件での坂本龍馬暗殺の犯人は、自分であると証言。家紋は、丸に平井筒紋。

乃木希典。1849年12月25日 - 1912年9月13日、陸軍軍人。
長州藩の支藩である長府藩の藩士、乃木希次・寿子の長男に生まれる。東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ「聖将」と呼ばれた。最終階級は陸軍大将。明治天皇の後を追って殉死。家紋は四つ持ち合い井筒、五瓜紋。青山霊園にて撮影。

松旭斎天一。1853年 - 1912年6月14日、奇術師。
越前福井藩陪臣・牧野海平の長男。本名は牧野八之助。後に服部松旭。大仕掛けな舞台奇術を志し浅草の文楽座で水芸、大砲芸や宗教劇奇術で成功。大道芸の手品を近代的な舞台奇術に発展させた。家紋は井桁紋(中は不明)。画像は霊巌寺墓所にて撮影。

湯本武比古。1856年1月8日 - 1925年9月27日、教育学者。
信濃国下高井郡科野村出身。文部省にて「読書入門」を編集。東宮御用掛もつとめる。学習院・東京高師(東京教育大)教授を務める。「教育時論」を主幹。著書・訳書などによってヘルバルト教育学普及の一翼を担う。画像は多磨霊園にて撮影。

伊地知季珍。1857年4月20日 - 1935年4月7日、海軍軍人。
薩摩藩出身。父は伊地徳四郎。読みは、いじちすえたか。「扶桑」砲術長として日清戦争に出征。「出雲(画像)」艦長に着任し日露戦争に出征。海軍中将、艦政本部長、海軍将官会議議員等を歴任。家紋は丸に隅立て組み井桁紋。青山霊園にて撮影。

伊地知彦次郎。1860年1月6日 - 1912年1月4日、海軍軍人。
鹿児島県出身。薩摩藩士・伊地知季太の二男として生まれる。日露戦争では、連合艦隊旗艦「三笠」艦長として従軍。NHKドラマ「坂の上の雲」では、ダンカンが演じた。最終階級は海軍中将。家紋は丸に隅立て組み井桁紋。青山霊園の墓所にて撮影。

伊井蓉峰。1871年9月30日 - 1932年8月15日、俳優。
東京市日本橋区出身。家業は写真家。本名・伊井申三郎。読みは、いいようほう。川上一座参加した後「男女合同改良演劇済美館」を興した。新派劇の黎明期を支え「新派の大統領」と呼ばれた。家紋は丸に三つ井桁紋。画像は鶴見・総持寺にて撮影。

酒井勝軍。1874年3月15日 - 1940年7月6日、オカルティスト。
山形県上山町出身。読みは、さかいかつとき。幼名は山下勇吉、後に酒井姓を継ぐ。日ユ同祖論を唱え、竹内文書の存在を主張する一方で、飛騨高山でピラミッド上野平を発見し『太古日本のピラミッド』を出版。画像は多磨霊園にて撮影。

中村吉蔵。1877年5月15日 - 1941年12月24日、劇作家。
島根県生まれ。イプセンの影響を受け春雨と号して新社会劇団を主宰の後、藝術座の島村抱月に招かれて戯曲「剃刀」などを書く。1920年に「井伊大老の死」を歌舞伎座で上演。歴史劇を書くようになる。家紋は七宝に井桁紋。画像は豪徳寺にて撮影。

井上範。1877年8月18日 - 1932年6月24日、土木工学者。
東京出身。本名読みは、いのうえはん。40年に大蔵省に入り、大蔵技師、内務技師を経て東京帝大の教授となる。その後、福岡県・若松港、兵庫県・神戸港、神奈川県・横浜港などの築港、改修を手がけた。家紋は井桁紋。画像は染井霊園にて撮影。

白井喬二。1889年9月1日 - 1980年11月9日、時代小説作家。
神奈川県横浜市に旧鳥取藩士で警察官吏の父・孝道の長男。本名は井上義道。「怪建築家十二段返し」でデビュー。『神変呉越草紙』『新撰組』で大衆文学の草分け的存在となる。『富士に立つ影』はベストセラー。画像は雑司ヶ谷霊園の墓所にて撮影。

井上成美。1889年12月9日 - 1975年12月15日、海軍軍人。
宮城県仙台市出身。読みは、いのうえしげよし。条約派に属し、米内光政、山本五十六らと共に日独伊三国軍事同盟、日米開戦に強硬に反対した。最後の海軍大将として知られている。最終階級は海軍大将。家紋は井桁菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。

永野重雄。1900年7月15日 - 1984年5月4日、実業家。
島根県松江市出身。読みは、ながのしげお。新日本製鐵会長などを歴任し、日本財界の雄として活躍した。戦後日本を代表する経済人の一人。経済同友会代表幹事、経団連・日経連各顧問を務めた。家紋は井桁に花菱紋。画像は多磨霊園にて撮影。

矢田津世子。1907年6月19日 - 1944年3月14日、小説家、随筆家。
秋田県南秋田郡五城目町出身。本名は矢田ツセ。はじめモダン派であったが純文学に転進し女流作家として人気を集めた。坂口安吾の恋人とされる。代表作は『神楽坂』『茶粥の記』。家紋は丸に組み井桁菱紋。画像は東本願寺田無墓地にて撮影。

前田山英五郎。1914年5月4日 - 1971年8月17日、大相撲の力士。
本名・萩森 金松。愛媛県西宇和郡喜須来村出身。大関羽黒山、横綱双葉山を相次いで張り手戦法でくだし「前田山の張り手旋風」と呼ばれた。第39代横綱。横綱通算勝率が5割未満だった。横綱・朝潮、大関・前の山の師匠。画像は総持寺にて撮影。

井上靖。1907年5月6日 - 1991年1月29日、小説家、詩人。
北海道旭川町に軍医・井上隼雄と八重の長男として出生。井上家は静岡県伊豆湯ヶ島で代々続く医家。1950年 『闘牛』で芥川賞を受賞。1976年に文化勲章受章。代表作『天平の甍』『おろしや国酔夢譚』『風林火山』等。家紋は丸に隅立て井桁。

井深大。1908年4月11日 - 1997年12月19日、実業家。
栃木県日光町出身。飯盛山で自刃した白虎隊士井深茂太郎の一族の末裔。盛田昭夫と共にソニーの創業者の一人。戦後日本を代表する起業家として世界的にも有名。トランジスタラジオ、トリニトロンテレビ等を世に送り出す。家紋は丸に隅立て組み井桁紋。

マディ上原。1957年 - 2009年12月22日、特殊漫画家。
東京生まれ。1981年、谷岡ヤスジに師事。1982年、漫画家として独立。エロ漫画誌、『ガロ』等に不条理四コマなどを発表。漫画家・原律子は元妻。また、根本敬との漫画ユニット「お岩」でも作品を発表。家紋は井桁に木瓜紋。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]
松紋 -長寿への願いを込めた紋- 松本清張、高島忠夫、細野晴臣...

松は長寿の象徴である。
例えば、『高砂』は、相生の松によせて夫婦愛と長寿を愛でて、人世を言祝ぐ能である。
日本人は松の木の悠然としていて変らない緑に、長寿という普遍的な願望をこの松に託したのである。
香川県は、松の多い土地柄として有名だが、やはりこの松紋の所有者も多い。
その昔、讃岐の国司となってこの地に下った藤原氏がこの松紋を採用、土地に根付き一族を広げていった。
全国では22位だが、香川県でだけ10位に入っているのである。
松紋所有の有名人は以下。

近藤真琴。1831年10月29日 - 1886年9月4日、教育家、思想家。
鳥羽藩士・近藤儀智の二男として江戸に出生。幕府軍艦操練所翻訳方に出仕。明治六大教育家の一人とされ攻玉社を創立。航海術、測量学、数学、国語学教育の先鞭を付けた。海軍軍人としては最終階級は海軍中佐。家紋は丸に左寄り三階松紋。

長松幹。1834年1月1日 - 1903年6月14日、武士、官僚。
長門・萩藩士。名は文仲。通称は別に大蔵、文助。京都で久坂玄瑞らとともに公家と交わる。維新後、新政府の史官となり、修史館監事時代に「復古記」を編修。元老院議官、貴族院議員。家紋は右寄り三階松紋。画像は青山霊園にて撮影。

松岡康毅。1846年8月14日 - 1923年9月1日、政治家。
徳島県板野郡上板町七条出身。幼名・毅之進、のち康毅。法律取調委員、高等法院陪席裁判官、検事総長、農商務大臣、貴族院議員、枢密院顧問官を歴任。日本法律学校第2代校長、日本大学初代学長・初代総長。家紋は丸に三つ松紋。青山霊園にて撮影。

大江卓。1847年11月2日 - 1921年9月21日、政治家・実業家。
土佐国幡多郡柏島出身。後藤象二郎は義父にあたり、妻は後藤象二郎次女、小苗。土佐陸援隊に入り倒幕運動に参加。第1回衆議院選挙において当選。大幅な軍縮予算案を査定し、これを可決させた。家紋は三つ松紋。青山霊園の墓所にて撮影。

松木直亮。1876年11月5日 - 1940年5月22日、陸軍軍人。
山口県出身。松木一郎の長男として生れる。陸大教官、陸軍省整備局長等を歴任。二・二六事件発生に伴い、東京陸軍軍法会議判士を命ぜられ、磯村年陸軍大将らと公判を担った。最終階級は陸軍大将。家紋は三つ松紋。画像は多磨霊園にて撮影。

大原孫三郎。1880年7月28日 - 1943年1月18日、実業家。
岡山県倉敷市の大地主・大原孝四郎の三男として生まれる。倉敷紡績、中国合同銀行、中国水力電気会社の社長を務め、大原財閥を築き上げる。また、大原美術館を設立等文化事業にも力を入れる。画像は、大原美術館内にある丸に向かい二つ松紋。

山本宣治。1889年5月28日 - 1929年3月5日、政治家。
京都府宇治に料理旅館「花やしき浮舟園」の主人・山本亀松の長男。日本共産党系の労農党の京都府連合会委員長。衆議院議員として治安維持法改正などに反対するが、「七生義団」の黒田保久二に刺殺された。家紋は一重亀甲に右寄り三階松紋。

丸山敏雄。1892年5月5日 - 1951年12月14日、宗教家、教育家。
福岡県豊前市合河町出身。倫理研究所の前身・新世文化研究所を設立し、社会教育、研究、文化、出版等の事業を行なう。後に、日本全国に50,000社を擁する倫理研究所として発展させる。家紋は一重亀甲に左寄り三階松紋。画像は多磨霊園にて撮影。

徳川夢声。1894年4月13日 - 1971年8月1日、弁士、漫談家。
島根県益田市に生まれ、東京に育つ。本名は福原駿雄。日本の元祖マルチタレントとも言える人物である。「彼氏」「恐妻家」の造語でも知られる。日本放送芸能家協会初代理事長。家紋は丸に三つ松毬紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。

水原茂。1909年1月19日 - 1982年3月26日、プロ野球選手、監督。
香川県高松市出身。高校野球、大学野球で活躍後、読売巨人軍に入団。引退後は、巨人、東映、中日で監督を務めた。巨人監督時代は在任11年間で8度のリーグ優勝、4度の日本一に輝く。家紋は丸に右荒枝付き三階松に株竹紋。画像は総持寺にて。

松本清張。1909年12月21日 - 1992年8月4日、小説家。
福岡県企救郡板櫃村出身。「或る『小倉日記』伝」で第28回芥川賞を受賞。「砂の器」「点と線」「黒革の手帖」など犯罪の動機を重視する作風の推理小説で知られている。多数。家紋は三つ重ね松紋。画像は富士見台霊園の墓所にて撮影。

木下惠介。1912年12月5日 - 1998年12月30日、映画監督。
静岡県浜松市で食料品店を営む家の4男として出生。『二十四の瞳』で、ゴールデングローブ賞外国語映画賞を受賞。『木下惠介劇場』『木下惠介アワー』など、多くのテレビドラマを制作。家紋は右寄り三ツ枝松。画像は鎌倉・円覚寺の墓所にて撮影。

石井隆匡。1924年1月3日 - 1991年9月3日、ヤクザ。
神奈川県横須賀市出身。本名は石井進。暴力団・稲川会二代目会長、横須賀一家五代目総長。企業経営志向を取り、経済進出する暴力団の先駆けとなる。山口組と一和会の抗争を休戦させる。家紋は丸に右荒枝付き三階松紋。画像は池上本門寺にて撮影。

辻邦生。1925年9月24日 - 1999年7月29日、仏文学者、小説家。
東京市本郷区駒込西片町に出生。父はジャーナリスト、母は鹿児島県の医家の出身。本籍地は山梨県東八代郡春日居町国府。立教大学助教授、学習院大学教授等を歴任。代表作は『廻廊にて』『安土往還記』『背教者ユリアヌス』など。家紋は三ツ枝松紋。

高島忠夫。1930年7月27日 - 、タレント・俳優・司会者。
兵庫県武庫郡出身。妻は女優の寿美花代、高嶋政宏・政伸は実子。代表出演作は『細うで繁盛記』。料理番組『ごちそうさま』やクイズ番組『クイズ・ドレミファドン!』など人気番組で司会も担当。家紋は三つ松。画像は春秋苑の生前墓にて撮影。

立川談志(7代目)。1936年1月2日 - 2011年11月21日、落語家。
東京府東京市小石川区に生まれる。本名は松岡克由。1971年 - 第9回参議院議員通常選挙に全国区から無所属で初当選。古典落語を現代的価値観・感性で表現しなおそうという野心的努力は評価されている。丸に左三蓋松は、立川流の定紋。

細野晴臣。1947年7月9日 - 、ミュージシャン。
東京都港区出身。祖父は日本人でタイタニック号に乗船し事故から生還した細野正文。大瀧詠一、松本隆、鈴木茂とはっぴいえんどを、坂本龍一、高橋幸宏とYMOを結成、成功を収める。家紋は丸に右寄り三階松。画像は多磨霊園の正文氏の墓所にて撮影。

hide。1964年12月13日 - 1998年5月2日、ミュージシャン。
神奈川県横須賀市出身。本名は松本秀人。元X JAPANのギタリスト。現在でも絶大な人気を誇る。ソロ活動では、ギター以外にも作詞、作曲、ボーカル、ベース、プロデューサーなどマルチプレイヤーとしての才能も発揮した。家紋は丸に右寄り三階松紋。
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[18 1 月 2009 | No Comment | | ]
桜紋 -どこかに死の匂いを感じさせる花- 原敬、吉田茂、与謝野晶子...

元々、「桜」は、どこかに死の匂いを感じさせる花であった。
例えば...
古事記においてニニギノミコトの妻、コノハナサクヤ姫(=桜の精)は生命の弱さの象徴であった。
源氏物語では桜は凶兆の花であった。
西行にとって、桜の根は、自分が死すべき場所であった。
世阿弥にとって、桜は死霊が蘇る宿り木であった。
秀吉にとって吉野の大花見会は、いままで戦で亡くなった人々への壮大は弔いの儀式であった。
そのため、桜紋は、その人気とは裏腹に広まらなかった。
全国全ての地域において、ベスト30に入っていないのだ。
しかし、一方、桜は、江戸中期から出始めた国文学者によって、徐々に日本の象徴として祀り上げられる様になる。
例えば、本居宣長はこんな歌を詠んでいるのだ。
  敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花
そして、明治時代からは、上記の国学的イデオロギーを引き継いで、様々な国家主義的組織の紋章として採用されていくのである。
現代でもその紋が生きているのは、例えば、学習院(左上)、大相撲(右上)、軍(左下)、靖国神社(右下)などの組織だ。
これらの紋は、桜の中でも山桜を入れ込んだ紋である。
有名人で桜紋を使用しているのは以下。

細川忠興。1563年11月28日 - 1646年1月18日、武将、大名。
将軍足利義輝に仕える幕臣・細川藤孝の長男として京都で生まれる。丹後宮津城主を経て豊前小倉藩初代藩主。教養人・茶人としても有名で、利休七哲の一人。熊本藩細川家初代。元首相の細川護熙は末裔。家紋の細川九曜は星が離れているのが特徴。

花柳壽輔(初代)。1821年2月19日 - 1903年1月28日、日本舞踊家。
江戸の玩具商・三国屋清兵衛の長男。読みは、はなやぎじゅすけ。日本舞踊界において最大の流派である花柳流の創始者。江戸期から明治初期にかけて『勧進帳』『船弁慶』などの舞台の振付を行う。家紋は花柳桜。画像は谷中霊園にて撮影。

井上馨。1836年1月16日 - 1915年9月1日、政治家、実業家。
長州藩士・井上五郎三郎光享の次男。本姓は源氏。清和源氏の一家系 河内源氏の流れを汲む安芸国人。外務卿、参議、農商務大臣、内務大臣を歴任。元々の家紋は割剣酢漿草菱だが、青山・長谷寺の墓所には桜菱紋が彫られている。

山県有朋。1838年6月14日- 1922年2月1日、政治家、陸軍軍人。
萩城下近郊の阿武郡出身。長州藩の中間・山縣有稔の長男。奇兵隊に入って頭角を現し新政府では日本陸軍の基礎を築き国軍の父と称される。内閣総理大臣(第3、9代)。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に大和桜紋と三つ鱗紋。画像は護国寺にて撮影。

桜井勉。1843年10月6日 - 1931年10月12日、行政官。
出石藩の儒官・桜井石門の長男として出石町伊木に出生。内務省地理局長時代には全国の気象測候所の創設を働きかけ、気象観測網の基礎を築いた。山梨県知事、台湾新竹知事、内務省神社局長を歴任。家紋は大和桜紋。画像は谷中霊園にて撮影。

原敬。1856年3月15日 - 1921年11月4日、政治家。
盛岡藩盛岡城外の本宮村で盛岡藩士原直治の次男として生まれた。分家として独立する際に平民となる。その際、家紋も三つ割桜とする。政界に進出し大正7年に内閣総理大臣に就任。爵位の受け取りを固辞し続けたため「平民宰相」と言われた。

吉田茂。1878年9月22日 - 1967年10月20日、官僚、政治家。
高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士竹内綱の5男として東京神田駿河台に生まれる。5度にわたって内閣総理大臣に任命された。内閣総理大臣としてサンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約を締結、戦後日本を創る。画像は青山霊園にて撮影。

与謝野晶子。1878年12月7日 - 1942年5月29日、歌人、作家。
大阪府堺市甲斐町で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む鳳宗七の三女。日露戦争の時に歌った『君 死にたまふことなかれ』は有名。代表作品は、『みだれ髪』『全訳源氏物語』。夫は与謝野鉄幹。元財務相・与謝野馨は孫。画像は多磨霊園にて撮影。

滋野清武。1882年10月6日 - 1924年10月13日、飛行家。
男爵・滋野清彦の三男として名古屋に出生。通称はバロン滋野。第一次世界大戦の開戦で、フランス陸軍航空隊に志願して陸軍飛行大尉に任命される。戦功が認められ受勲。家紋は六つ細川桜紋。画像は谷中霊園の墓所にて撮影。

三輪寿壮。1894年12月15日 - 1956年11月14日、法律家、政治家。
福岡県糟屋郡古賀村に生まれる。読みは、みわじゅそう。戦前は、労働争議や小作争議で闘う。衆議院議員に初当選後、ゾルゲ事件で尾崎秀実の官選弁護人を務める。戦後は左右社会党の統一を成し遂げる。家紋は丸に剣桜紋。画像は多磨霊園にて撮影。

水野成夫。1899年11月13日 - 1972年5月4日、実業家。
静岡県出身。水野彦治郎の三男。読みは、みずのしげお。ニッポン放送の鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長となる。「財界四天王」の一人。「マスコミ三冠王」と呼ばれた。家紋は丸に三つ葉桜紋。春秋苑にて撮影。

宇都宮徳馬。1906年9月24日 - 2000年7月1日、政治家、実業家。
陸軍大将、朝鮮軍司令官・宇都宮太郎の長男として東京に生まれる。平和共存外交、日ソ国交回復や日中・日朝の国交回復を主張するなど自民党の左派として活躍。家紋は丸に雀口桜紋。画像は麻布・賢崇寺の父・宇都宮太郎の墓にで撮影。

埴谷雄高。1909年12月19日 - 1997年2月19日、作家、評論家。
台湾の新竹に生まれる。本名は、般若豊。代表作は思弁的な大長篇小説『死靈(しれい)』。世界文学史上未曾有の形而上小説であったが未完に終わる。晩年は吉本隆明とコム・デ・ギャルソン論争で対決。画像は青山霊園にて撮影。

吉永小百合。1945年3月13日 - 、女優。
東京都渋谷区代々木西原町(当時)出身。本名:岡田小百合。浜田光夫と共に1960年代の日本映画界に一大旋風を巻き起こした。代表出演作『キューポラのある街』『愛と死をみつめて』『母べえ』等。家紋は雪輪に山桜紋。

狩野英孝。1982年2月22日 - 、お笑いタレント。
宮城県栗原市栗駒出身。実家は約1500年続いているといわれる櫻田山神社。神紋は桜。「ホストネタ」をメインの芸とするがイジられキャラでもある。「ラーメン、ツケメン、ぼくイケメン」「スタッフゥ~」等のギャグを持っている。
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[16 1 月 2009 | One Comment | | ]
鷹の羽紋 -爪を隠した優美な紋- 浅野長矩、菊池寛、小泉純一郎...

ヨーロッパのファミリークレスト(紋章)と日本の家紋を比べて大きく3つの点で異なっている。
1)ファミリークレストは貴族階級のみ所持するが、家紋は一般庶民にまで広まった。
2)ファミリークレストの図柄は写実的なものが多いが、家紋はデザインが洗練され、抽象化されているものが多い。
3)ファミリークレストでは動物、猛禽類が素材に使われるが、日本ではそれらが使われるのは稀である。
そんな日本の家紋の中で、例外的に猛禽類を家紋として、かなり広まっているのが、この鷹の羽なのである。
しかし、鷹は鷹でもこの紋は、鷹の姿ではなく、鷹の羽を家紋化するところが特徴だ。
獰猛、精悍な姿(いわゆる爪)を隠して、その羽を優美な紋所とする、そのセンスは、どこか、軍隊を自衛隊と言い繕う感覚と通底している。
ごまかしと言うのか、慎み深いと言うのかは、立場によって違うとは思うがいずれにしても日本的といえるだろう。
しかも、この家紋は全国では3位だ。
目立つ地域は、群馬県、千葉県、神奈川県、大分県、熊本県、宮崎県、鹿児島県で1位。
茨城県、栃木県、埼玉県、東京都、山梨県、長野県、愛知県、滋賀県、奈良県、京都府、兵庫県、福岡県、佐賀県、長崎県で2位。
関東と九州で特に多いことがわかる。一方で、比較的少ないのが、青森県(10位)、石川県(8位)、浅野家、阿部家のお膝元広島県の9位。
九州では名族・菊池一族の家紋だったことが大きく影響しているからと言われているが、一方、関東に多いのは、この地域では比較的広い荘園を支配した武士の紋を、そのまま農民が多く使用したからでないだろうか。
それに対して、関西、中国四国の村々では、それぞれの家紋を持った比較的力の強い家族が集まった共同体的性格が強かったのではないだろうか。
さて、鷹の羽を持つ有名人は以下。

菊池武光。1319年 - 1373年12月29日、武将。
菊池氏の第15代当主。南朝・後醍醐天皇の皇子で、征西将軍として九州へ派遣された懐良親王を隈部山城に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に努める。一色、少弐、両者を倒して九州における南朝勢力の隆盛を確立した。家紋は並び鷹の羽。

阿蘇惟豊。1493年 - 1559年12月5日、阿蘇氏の18代当主。
阿蘇惟憲の子。阿蘇惟将・惟種の父。甲斐親宣・親直父子の補佐を受け阿蘇氏の最盛期を築く。阿蘇五ヶ所衆の一人。阿蘇神社大宮司でもある。後奈良天皇宸筆の「般若心経」を受納し阿蘇上宮に社納。家紋は違い鷹の羽。画像は阿蘇神社の神紋。

浅野長矩。1667年9月28日 - 1701年4月21日。大名、赤穂藩主。
播磨赤穂浅野家は広島浅野家の傍流の一つで浅野長政の三男長重を祖とする家柄。殿中刃傷を起こし切腹させられ赤穂浪士の復讐へと繋がる。後に「忠臣蔵」等の歌舞伎や映画で扱われる。家紋は浅野鷹の羽紋。画像は別の浅野家の浅野鷹の羽紋。

高松喜六。1600年代 - 1713年、名主。
江戸浅草阿部川町の名主(なぬし)。元禄11年、あたらしい宿場開設を幕府に願いでて、内藤氏屋敷前に内藤新宿をひらき、甲州街道をとりしまる名主となった。家紋は抱き鷹の羽に変わり「高」の文字紋。画像は四谷・愛染院にて撮影。

勝川春章。1726年 - 1793年1月19日、浮世絵師。
本姓不詳。画姓は初め宮川、後に勝川と称した。写実的でブロマイド的な役者似顔絵を完成させた。代表作の「東扇」は大首絵の先駆的作品。肉筆画では「雪月花図」が代表作。葛飾北斎(勝川春朗)をはじめ、多数の弟子がいた。家紋は丸に鷹の羽紋。

菊池容斎。1788年11月28日 - 1878年6月16日、日本画家。
幕府西丸の御徒・河原専蔵武吉の次男として、江戸下谷長者町にて出生。系図によると南朝遺臣の菊池武時の後裔であるという。菊池武長の後を継いで菊池家を再興した。代表作は「蒙古襲来図」「堀河焼討図」「九相図」。家紋は並び鷹の羽紋。

歌川国芳。1798年1月1日 - 1861年4月14日、浮世絵師。
江戸日本橋本銀町に生まれる。父は京紺屋を営む柳屋吉左衛門。武者絵、名所絵、美人画、役者絵、狂画など多彩な作品を残す。幕府を風刺することで絶大な人気を得る。代表作は『役者似顔絵六歌仙図』『忠臣蔵十一段目夜討之図』等。

阿部正弘。1819年12月3日 - 1857年8月6日、老中首座。
福山藩・第5代藩主・阿部正精の五男として江戸西の丸屋敷にて出生。幕末の動乱期にあって改革を断行。老中首座在任中にペリーが来航、日米和親条約締結を行う。洋学所、長崎海軍伝習所等を創設。家紋は阿部鷹の羽紋。画像は谷中霊園にて撮影。

中村正直。1832年6月24日 - 1891年6月7日、啓蒙思想家。
江戸で幕臣の家に出生。サミュエル・スマイルズの『Self Help』を『西国立志篇』の邦題で出版、100万部以上を売り上げる。同人社創立者。また福澤諭吉、森有礼、西周らと明六社を結成。家紋は下り藤に違い鷹の羽紋。画像は谷中霊園にて撮影。

福沢諭吉。1835年1月10日 - 1901年2月3日、教育者、著述家。
豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤桃介・於順の次男として生まれる。東京学士会院(現在の日本学士院)初代会長、慶應義塾創設者。代表作品は「学問のススメ」「西洋事情」「福翁自伝」など。画像は元麻布・善福寺の墓所にて撮影。

ジョセフ彦。1837年9月20日 - 1897年12月12日、通訳、貿易商。
播磨国加古郡出身。本名は浜田彦蔵。紀伊半島の大王岬沖で難破。米商船に救助されて渡米。神奈川領事館通訳を務めた。後に英字新聞を日本語訳した「海外新聞」を発刊。新聞の父と言われる。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて。

長與專齋。1838年10月16日 - 1902年9月8日、医学者、官僚。
長与氏は肥前国大村藩に代々仕える漢方医の家系。オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。文部省医務局長に就任。また東京医学校の校長を兼務。衛生思想の普及に尽力。衛生の語は、Hygieneの訳語として長与が採用した。画像は青山霊園。

坂田警軒。1839年6月15日 - 1899年8月15日、漢学者、政治家。
備中国川上郡九名村出身。肥後国に遊学し、木下犀潭に入門。井上毅・竹添進一郎と共に木門の三才と称される。岡山藩家老池田氏の賓師から第2代興譲館(岡山藩藩校)館長に就任。家紋は五瓜に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

小牧昌業。1843年10月5日 - 1922年10月25日、官僚、政治家。
薩摩藩(鹿児島県)で生まれた。明治期に官僚として黒田清隆に仕え、開拓使幹事・大臣秘書官・内閣書記官長、奈良県知事、愛媛県知事などを歴任した。後に、貴族院議員に勅選された。家紋は丸に鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

日比谷平左衛門。1848年3月25日 - 1921年1月9日、実業家。
越後国蒲原郡三条町の旅宿営業者の3男として生まれ、日比谷家の養子となる。日清紡績、鐘淵紡績の設立に関わり日本紡績界の巨人といわれた。また、第一生命、九州電力などの設立にも寄与。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

日高壮之丞。1848年4月26日 - 1932年7月24日、海軍軍人。
鹿児島県出身。薩摩藩士・宮内清之進の次男。日高籐左衛門の養子となり家督を相続。NHKドラマ「坂の上の雲」では中尾彬が演じた。最終階級は海軍大将。幾多の軍功によって男爵位を受勲。家紋は割り杏葉菊に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

川村景明。1850年4月8日 - 1926年4月28日、陸軍軍人。
薩摩藩士・野崎吉兵衛の三男として薩摩に生まれ川村家の養子となる。戊辰戦争、日清戦争、日露戦争に従軍。東京衛戍総督、鴨緑江軍司令官、帝国在郷軍人会会長を歴任。最終階級は元帥陸軍大将。家紋は丸に並び鷹の羽紋。画像は青山霊園にて。

大蔵平三。1853年1月30日 - 1911年8月25日、陸軍軍人。
岡山県出身。医師・大野意俊の二男として生まれ、大蔵建安の養子となる。西南戦争に出征し、陸軍大学校教授、参謀本部第2局員、陸大教官、騎兵第1大隊長、騎兵課長、騎兵監を歴任。最終階級は陸軍中将。画像は青山霊園にて撮影。

飯沼貞吉。1854年4月22日 - 1931年2月12日、白虎隊士。
会津藩士・飯沼時衛一正の二男として出生。年齢を偽り白虎隊に参加したが戦い利あらず飯盛山にて他の十九士と共に自刃に及んだが死に切れなかった。日清戦争にも従軍、77歳で生涯を終えた。家紋は環に違い鷹の羽紋。画像は仙台輪王寺にて撮影。

大井成元。1863年10月22日 - 1951年7月15日、陸軍軍人。
山口県出身。大井又平の三男。読みは、おおいしげもと。シベリア出兵に従軍した。最終階級は陸軍大将。除隊後は貴族院議員となり、恢弘会会長に就任し、内閣参議も務める。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

浅川範彦。1865年 - 1907年1月10日、細菌学者、医学博士。
土佐国土佐郡秦村に生まれる。中江兆民の従兄弟。旧高知藩士。ジフテリアや破傷風などの血清研究に功績を残した。免疫学の第一人者として活躍。日本細菌学会賞の一つ、浅川賞に名前を残す。家紋は上り藤に違い鷹の羽紋。青山霊園の墓所にて撮影。

原嘉道。1867年3月23日 - 1944年8月7日、法学者、政治家。
信濃国須坂に原茂作の長男として出生。父はもともとは庄屋格の農家。中央大学学長として「法律の中大」の基礎を作る。政治家としては、司法大臣、枢密院議長などを歴任。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

一木喜徳郎。1867年5月7日 - 1944年12月17日、法学者、政治家。
遠江国佐野郡倉真村に岡田良一郎の二男として生まれ一木家の養子となる。内務省に入省。ドイツに留学し行政法を学ぶ。法制局長官、文部大臣、内務大臣、宮内大臣、枢密院議長を歴任。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は谷中霊園にて撮影。

五島清太郎。1867年8月18日 - 1935年7月20日、動物学者。
長門国阿武郡川島村に長州藩藩士五島守篤の次男として出生。歌人・五島美代子の父。寄生虫関連の研究で知られる。東大理学部長を務め、日本寄生虫学会創立。初代会頭就任した。家紋は丸に違い鷹の羽。画像は染井霊園の五島家の墓所にて撮影。

正岡子規。1867年10月14日 - 1902年9月19日、俳人・歌人。
伊予国温泉郡藤原新町に松山藩士・正岡常尚の長男として出生。本名は常規。俳句・短歌・新体詩・小説・評論・随筆など多方面に渡り創作活動を行い日本の近代文学に多大な影響を及ぼす。家紋は丸に鷹の羽紋と丸に三つ鱗紋。画像は子規系図より。

尾崎紅葉。1868年1月10日 - 明治36年10月30日、小説家
江戸芝中門前町出身。父は根付師。本名、徳太郎。幸田露伴と並称され明治期の文壇の重きをなした。代表作は「金色夜叉」「多情多恨」「二人比丘尼 色懺悔」など。泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声などは門下生。画像青山霊園にて撮影。

広瀬武夫。1868年7月16日 - 1904年3月27日、海軍軍人。
岡藩士・広瀬友之允の次男。日露戦争・旅順港閉塞作戦に従事。部下を助けるため敵軍砲弾の直撃を受け戦死。日本初の軍神となり出身地の大分県竹田市に広瀬神社が創建された。最終階級は海軍中佐。家紋は丸に並び鷹の羽。画像は青山霊園にて撮影。

大砲万右エ門。1869年12月30日 - 1918年5月27日、第18代横綱。
角田県刈田郡大鷹沢村出身。本名は角張萬次。現役引退後は年寄・待乳山を襲名。98勝29敗51分4預138休。優勝相当成績2回。当時史上最長身の横綱。常陸山ですら彼には苦戦し当の本人も常陸山が相手だと聞けば安心していたと伝えられている。

大下藤次郎。1870年7月9日 - 1911年10月10日、水彩画家。
東京で馬宿、馬車問屋を営む家に出生。家業を手伝う傍ら美術界へ進むことを決意し絵画を学ぶ。技法書の『水彩画之栞』を刊行しベストセラーとなる。美術雑誌『みづゑ』を刊行。家紋は、丸に並び鷹の羽紋。画像は雑司が谷の墓所にて撮影。

内田良平。1874年2月11日 - 1937年7月26日、右翼運動家。
旧福岡藩士内田良五郎の三男。叔父の平岡浩太郎の影響により国家主義運動の指導者となった。日本の朝鮮、中国への勢力拡大に強い関心を持ち、黒龍会を結成、主幹となり日韓合邦論を主張した。家紋は丸に一つ鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

鈴木梅太郎。1874年4月7日 - 1943年9月20日、農芸化学者。
静岡県榛原郡堀野新田村にて、農業・鈴木庄蔵の次男。東京帝国大学名誉教授、理化学研究所設立者。文化勲章受章者。世界初のビタミンであるアベリ酸(のちにオリザニンと改名、ビタミンB1)、また、合成清酒を発明する。画像は多磨霊園にて撮影。

高木貞治。1875年4月21日 - 1960年2月28日、数学者。
岐阜県本巣郡数屋村出身。ドイツへ3年間留学。ヒルベルトに師事し多大な影響を受ける。代数的整数論の研究では類体論を確立しクロネッカーの青春の夢を解決した。著書に『初等整数論講義』『代数的整数論』がある。画像は多磨霊園にて撮影。

山梨勝之進。1877年7月26日 - 1967年12月17日、海軍軍人。
宮城県宮城郡仙台出身。旧仙台藩士の長男として生まれた。軍政部門に歩み山本権兵衛・加藤友三郎の系譜を継ぐと目されていた条約派の1人。海軍次官在任中はロンドン海軍軍縮条約の締結に奔走。最終階級は海軍大将。画像は青山霊園にて撮影。

野間清治。1878年12月17日 - 1938年10月16日、実業家。
群馬県桐生市出身 。講談社創業者、報知新聞社社長。「雑誌王」とよばれ雑誌「キング」は大ヒット、昭和時代前期の出版界を牽引。主な刊行雑誌『少年倶楽部』『キング』『少女倶楽部』。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は護国寺にて撮影。

米内光政。1880年3月2日 - 1948年4月20日、海軍軍人、政治家。
旧盛岡藩士米内受政の長男として現在の岩手県盛岡市に生まれる。林内閣にて海軍大臣として入閣。海軍内の条約派として三国同盟・日米開戦に反対。阿部信行の内閣総辞職により内閣総理大臣(第37代)に任命された。最終階級は海軍大将。

石橋湛山。1884年9月25日 - 1973年4月25日、政治家。
日蓮宗僧侶・杉田湛誓ときん夫妻の長男。ただし、母方の石橋家を継ぐ。その石橋家は江戸城内の畳表一式を請け負う大きな畳問屋。第55代内閣総理大臣就任直後に脳梗塞で倒れ首相在任期間は65日。歴代で3番目の短命政権。画像は日暮里の善性寺。

高須四郎。1884年10月27日 - 1944年9月2日、海軍軍人。
茨城県桜川村出身。知英派で当時の欧米事情に詳しく日独伊三国軍事同盟や日米開戦に反対し、山本五十六や米内光政等、海軍左派勢力からも強く信頼されていた。最終階級は海軍大将。家紋は丸に違い鷹の羽紋。画像は青山霊園にて撮影。

木下杢太郎。1885年8月1日 - 1945年10月15日、医学者、詩人。
静岡県伊東市出身。本名は太田正雄。石川啄木創刊の「スバル」等に詩を発表。また「パンの会」(青年文芸・美術家の懇談会)を主催、永井荷風、高村光太郎、谷崎潤一郎等が参会する。医学の道では、らい病の権威でもある。画像は多磨霊園にて撮影。

木村篤太郎。1886年2月7日 - 1982年8月8日、政治家、剣道家。
奈良県五條町に生まれる。読みは、きむらとくたろう。幣原内閣の検事総長、吉田内閣で司法大臣、法務大臣、保安庁長官、防衛庁長官を務める。全日本剣道連盟初代会長。家紋は五瓜に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて撮影。

早川雪洲。1886年6月10日 - 1973年11月23日、俳優。
千葉県安房郡千倉町の裕福な網元の家に出生。本名は早川金太郎。日本人として最も早い時代に活躍した国際的映画俳優である。日本人男優として初めてアカデミー助演男優賞にノミネートされる。代表出演作は『南海漂流』『戦場にかける橋』等。

牛島満。1887年7月31日 - 1945年6月23日、陸軍軍人。
鹿児島県鹿児島市出身。陸軍では教育畑を歴任。沖縄戦においては第32軍を指揮し自決。温厚な人柄で彼の人柄を懐かしむ声は多いという。最終階級は陸軍中将(死後大将に昇進)。家紋は反り違い鷹の羽紋。青山霊園の墓所にて撮影。

菊池寛。1888年12月26日 - 1948年3月6日、小説家。
香川県高松市生まれ。菊池家は高松藩の儒学者の家柄。文藝春秋社を創設し、芥川賞、直木賞を設立。川端康成、小林秀雄等新進の文学者に金銭的な援助を行う。代表作は「父帰る」「恩讐の彼方に」。丸に違い鷹の羽紋。画像は多磨霊園にて。

三木露風。1889年6月23日 - 1964年12月29日、詩人、童謡作家。
兵庫県揖西郡龍野町生まれ。本名は三木操。若き日は日本における象徴派詩人でもあった。詩人・作詞家として、北原白秋と並び「白露時代」と称された。代表作は「赤とんぼ」「かっこう」「野薔薇」「十五夜」等。家紋は折敷に違い鷹の羽紋。

川島正次郎。1890年7月10日 …

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[16 1 月 2009 | No Comment | | ]
巴紋 -水が渦巻いている姿を表現- 山本勘助、土方歳三、松田聖子...

巴というのは水が渦巻いている姿を文様にしたものである。
古来、人間にとって最も重要な物質が水である。
ある時は、水不足にならないように、ある時は、火除けのために、人々はこの巴紋に願いを込めたのである。
また、この文様は武士の弓手の装着する鞆(トモ)から来たとも、人の魂を形象化したものとも、勾玉から来たとも言われている。
おそらく、巴紋の形の普遍性は、それらの様々な由来を全部汲み取っているのであろう。
全国では、13位。
特に多い地域は無いが、栃木県、鳥取県、愛媛県、高知県、大分県での6位が最高。
続いて、島根県で7位、愛知県、岐阜県、和歌山県、広島県、福岡県で8位に入っている。
少ないところでは滋賀県、京都府が19位、長野県が22位。
巴紋を持つ有名人は以下。

赤松満祐。1381年 - 1441年9月25日、守護大名。
播磨・美作・備前の守護大名・赤松義則の子。二度に渡って侍所頭人を務め、幕府内の長老格として権勢を振るう。1441年に結城合戦の祝勝会として足利義教を自邸に招き暗殺、いわゆる嘉吉の乱を起こすが、幕府方が派遣した細川氏、山名氏などに敗北。

山本勘助。1501年 - 1561年9月10日、戦国武将。
三河国宝飯郡牛窪(愛知県豊川市牛久保町)出身。武田家家臣。二十四将の一人で、武田の五名臣の一人でもある。2007年NHK大河ドラマ「風林火山」の主役となった(内野聖陽が演じる)。写真は勘助がしていたといわれる巴紋付きの眼帯。

氏家卜全。1512年 - 1571年6月4日、戦国時代の武将。
美濃守護の土岐頼芸の家臣として仕えたが、斎藤道三によって頼芸が追放されると、道三の家臣として仕えた。美濃三人衆の中では最大の勢力を有していた。伊勢国長島攻めで柴田勝家に従軍し戦死。家紋は左三巴紋。

小早川隆景。1533年 - 1597年7月26日、武将・大名。
毛利元就と妙玖夫人の三男として生まれる。幼名徳寿丸。毛利両川の1人として元春と共に毛利氏の発展に尽くした。毛利水軍の指揮官としても活躍している。豊臣政権下では秀吉の信任を受け、文禄年間に五大老の一人に任じられた。家紋は左三巴。

九鬼嘉隆。1542年 - 1600年11月17日、武将・大名。
志摩の国衆の一員として身を起こし、織田信長・豊臣秀吉のお抱え水軍(九鬼水軍)の水軍武将として活躍し、3万5000石の禄を得た。九鬼氏の第8代当主である。後に関ヶ原の戦いで西軍に与し、敗れて自害した。家紋は左三巴紋と七曜紋。

板倉勝重。1545年 - 1624年6月14日、大名、京都所司代。
三河国額田郡小美村に生まれる。父の家督を継いで家康に従う。関ヶ原の戦い後の三河国3郡に6,600石を与えられるとともに京都所司代に任命され京都の治安維持を担当。禁中並公家諸法度に基づいて朝廷の指導と監視に当たった。家紋は九曜巴。

宇都宮広綱。1545年 - 1576年8月30日、戦国大名。
上野の守護大名、宇都宮氏二十一代当主、宇都宮尚綱の子。父が那須高資と戦って敗死した時、幼少だったため家臣の芳賀高定に守られて宇都宮城を落ち延びる。上杉謙信と同盟を結んで関東制覇を目指す後北条氏と対立したが独立を保持。家紋は右三巴紋。

田中吉政。1548年 - 1609年3月23日、武将、大名。
近江国・高島郡田中村の出身。先祖は近江源氏高島氏の一族田中氏で田中城の城主。転封の過程で居城とした近江国・八幡、三河国・岡崎、筑後国・柳河などに現代でも高く評価できる都市設計を行った。家紋は左三巴紋と釘抜紋。

蒲生氏郷。1556年 - 1595年3月17日、武将。
蒲生氏は奥州藤原氏・藤原秀郷の系統に属する鎌倉時代からの名門。織田氏家臣から、豊臣家(羽柴家)家臣となる。初め近江日野城主、次に伊勢松阪城主、最後に陸奥黒川城主。またキリシタン大名で洗礼名はレオン。家紋は蒲生対い鶴と左三巴。

別所長治。1558年 - 1580年2月2日、大名。
別所氏は早くから織田信長に従う。中国方面総司令官が成り上がりの羽柴秀吉であることに不満を感じ、丹波の波多野秀治と呼応して信長に反逆した。三木城に籠もって徹底抗戦して秀吉を手こずらせるが「三木の干し殺し」戦法で自害。家紋は左三巴。

不破光治。生年不詳 - 1580年12月14日、斎藤氏・織田氏の家臣。
藤原直家の後裔とする説や清和源氏の棟梁・源為義の後裔とする説がある。稲葉一鉄、安藤守就、氏家卜全の3人と共に西美濃四人衆と言われる。越前一向一揆を平定後は、佐々成政、前田利家と共に府中三人衆と呼ばれた。画像は不破光治が拠った龍門寺。

糟屋武則。1562年 - 1607年、大名。
糟屋氏は播磨加古川城を拠点に鎌倉時代から続く武家。賤ヶ岳の戦いで賤ヶ岳の七本槍の一人に数えられ、その戦功により播磨国に二千石、河内国に一千石など合わせて三千石余を拝領する。関ヶ原の戦いに西軍として参戦した。家紋は三つ盛三巴。

有馬晴信。1567年 - 1612年6月5日、大名。
肥前・有馬氏当主。有馬義貞の次男。キリシタン大名として知られ大友宗麟や大村純忠とともに天正遣欧使節を派遣。関ヶ原の合戦では東軍に寝返り小西行長の居城であった宇土城を攻撃。その功績により旧領を安堵された。家紋は左三巴と五瓜に唐花。

結城秀康。1574年3月1日 - 1607年6月2日、武将、大名。
家康の次男として遠州浜松で生まれた。下総国結城の大名・結城晴朝の姪と婚姻して結城氏の家督と結城領10万1千石を継ぎ、「結城秀康」と名乗る。関ヶ原の後、秀康は家康より下総結城藩から越前北庄67万石に加増移封される。家紋は右三つ巴。

宮本武蔵。1584年 - 1645年6月13日、剣豪。
播磨国出身。二刀で有名な二天一流兵法の祖。家系に関しては諸説ある。吉岡一族との決闘、巌流島の決闘など60余回の勝負を行い全てに勝利したという。主著は「五輪の書」。また、工芸家、水墨画家としても名高い。家紋は九曜巴紋。

安松金右衛門。1611年 - 1686年10月24日、武蔵川越藩士、郡代。
本国は河内国、生国は播磨国。安松九左衛門の子。旧姓を神吉(かんき)と称し,名は吉美(よしざね)、金右衛門は通称。玉川上水・野火止用水の開削を行う。「算術の達人」と称された。家紋は一重亀甲に左三つ巴紋。平林寺の墓所にて撮影。

大石内蔵助。1659年 - 1703年2月4日、播磨国赤穂藩の筆頭家老。
播磨国出身。大石家は藤原秀郷の末裔小山氏の一族。代々近江国守護佐々木氏のもとで栗太郡大石庄の下司職をつとめていた。元禄赤穂事件で名を上げ、これを題材とした忠臣蔵で有名になった。家紋は右二つ巴紋。画像は泉岳寺の墓所にて撮影。

石田梅岩。1685年10月12日 - 1744年10月29日、思想家。
丹波国桑田郡東懸村に百姓の次男として生まれる。45歳の時に無料講座を開き、石門心学と呼ばれる思想を説いた。思想の根底にあるのは宋学の流れを汲む天命論である。主な著書に『都鄙問答』『倹約斉家論』がある。家紋は左三つ巴紋。

葛城彦一。1818年11月5日 - 1880年1月23日、武士。
大隅加治木の郷士。本姓は竹内。島津家の家督相続の内紛では斉彬を推して久光に対抗したが,脱藩して筑前にのがれた。加治木島津家から近衛家に嫁した貞姫の付け人として近衛家につかえた。家紋は右三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

大木喬任。1832年4月23日 - 1899年6月26日、政治家。
肥前国佐賀藩士・大木知喬の長男。読みは、おおきたかとう。大木氏は筑後国の蒲池氏の一族。江藤新平、大隈重信らと共に義祭同盟に参加。東京奠都に尽力。東京府知事、民部大輔、元老院議長を務めた。家紋は左三つ巴。画像は青山霊園にて。

橋本実梁。1834年5月13日 - 1885年9月16日、公家。
橋本実麗の子。読みは、 さねやな。条約勅許に反対する有志堂上88名の列参に参加。八月十八日の政変後は差控に処せられたが王政復古によって参与となり戊辰戦争に従軍。左画像は麻路さき(宝塚歌劇団)。家紋は右尾長巴紋。青山霊園にて撮影。

土方歳三。1835年5月31日 - 1869年6月20日、幕臣。
武蔵国多摩郡石田村出身。新選組鬼の副長として恐れられた。戊辰戦争では榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流。蝦夷共和国においては陸軍奉行並箱館市中取締裁判局頭取に就任。函館戦争中に銃弾に戦死。家紋は左三つ巴。

谷干城。1837年3月18日 - 1911年5月13日、陸軍軍人、政治家。
高知城下に土佐藩上士・谷万七の第4子として生まれた。幕末時代は、攘夷から倒幕派へ。西南戦争の際には西郷軍の攻撃から熊本城を死守した。最終階級は陸軍中将。その後、学習院院長から政治家に転身。農商務大臣も務めた。家紋は左三つ巴紋。

西園寺公望。1849年12月7日 - 1940年11月24日、政治家。
清華家の一つ徳大寺家の次男として誕生し、西園寺家へ養子に入り家督を相続した。第12・14代内閣総理大臣。思想的にリベラルを自称し、衆議院での多数派政党が内閣を組織する憲政の常道を慣例にした。家紋は右三つ巴。多磨霊園での墓所にて撮影。

角田秀松。1850年3月25日 - 1905年12月13日、海軍軍人。
会津藩医、角田良智の二男。父の蝦夷地赴任に同行した。戊辰戦争で朝敵とされた会津藩出身者として初めて海軍将官となった。日露戦争時には竹敷要港部司令官を務めた。最終階級は海軍中将。家紋は五瓜に右三つ巴紋。青山霊園にて撮影。

浅田信興。1851年11月5日 - 1927年4月27日、陸軍軍人。
武蔵国出身。川越藩士・坂口朗忠の三男として生まれ、同藩士・浅田順信の養子となる。歩兵第2連隊長、屯田兵参謀長、陸軍大佐、近衛師団長、教育総監、陸軍大将、軍事参議官兼東京衛戍総督を歴任。家紋は結び三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

中村雄次郎。1852年3月18日 - 1928年10月10日、陸軍軍人。
伊勢国一志郡波瀬村出身。大庄屋・中村一貫の二男。陸軍省軍務局砲兵事務官長、陸軍士官学校校長、陸軍次官兼軍務局長等を歴任。日清、日露戦争の功により男爵を受勲。最終階級は陸軍中将。家紋は右金輪巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

北里柴三郎。1853年1月29日 - 1931年6月13日、医学・細菌学者。
熊本県阿蘇郡小国町に生まれる。破傷風菌純粋培養法に成功、血清療法の開発、ペスト菌の発見などの偉業がある。「日本の細菌学の父」として知られる。北里研究所、慶應義塾大学医学部を創設する。家紋は檜扇に巴紋。画像は青山霊園の墓所にて撮影。

江木千之。1853年5月21日 - 1932年8月23日、官僚、政治家。
周防国岩国藩出身。読みは、えぎかずゆき。内務省で大臣秘書官、県治局長、愛知・広島などの県知事を、晩年には枢密顧問官、文政審議会副総裁、大東文化協会副会頭、皇典講究所所長などを務めた。家紋は左三つ巴紋。画像は青山霊園にて撮影。

片山東熊。1854年1月18日 - 1917年10月24日、建築家。
長門国萩出身。宮内省で赤坂離宮など宮廷建築に多く関わる。職務として県庁や博物館、宮内省の諸施設など36件の設計に関わったほか公務の合間に貴族の私邸を中心に14件の設計を行った。ジョサイア・コンドルの最初の弟子。家紋は左三つ巴紋。

高嶺秀夫。1854年10月5日 - 1910年2月22日、教育学者。
陸奥国若松城下出身。会津藩主松平容保の小姓。会津戦争では籠城の末、降伏。米留学帰国後、東京高等師範学校長、東京女子高等師範学校長、東京美術学校長、東京音楽学校長を歴任。家紋は左三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。

大岡育造。1856年7月4日 - 1928年1月27日、政治家。
長門国豊浦郡小串村に医師大岡尚斎の長男として出生。国民協会、帝国党立憲政友会、立憲政友会の設立に関わる。第1次山本内閣には文部大臣として入閣。3年間、衆議院議長を勤める。家紋は右金輪巴紋。画像は谷中霊園にて撮影。

土肥慶蔵。1866年7月20日 - 1931年11月6日、医学者。
越前武生領の医者五世石渡宗伯の次男として、越前府中松原に出生。読みは、どひけいぞう。実質的に西洋医学に入る皮膚科を日本に導入し日本皮膚科学会を発足させた。主著は『世界黴毒史』。家紋は丸に左三つ巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。

服部宇之吉。1867年6月2日 - 1939年7月11日、中国哲学者。
福島の二本松藩士服部藤八郎の三男。哲学科出身で西洋哲学やその方法論を学び中国哲学を講じた。東京帝国大学教授、ハーバード大学教授、東方文化学院院長を歴任。代表著作『孔子教大義』『孔子及孔子教』等。画像は護国寺にて撮影。

梶田半古。1870年-1917年、日本画家。
彫金家梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれる。日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成発起人の一人として加わった。新な写実表現を用い、『春宵怨』『豊年』などを発表する。家紋は尾長右三つ巴紋。画像は染井霊園の墓所にて撮影。

吉岡彌生。1871年4月29日 - 1959年5月22日、教育者、医師。
遠江国城東郡土方村に漢方医・鷲山養斎の娘として出生。東京女医学校・東京女子医科大学創立者。日本女医会会長、日本医師会参与を歴任。画像は東京女子医大隣の月桂寺東京女子医大の水桶の校紋。ただし本人の墓所の巴は三つ左巴。

広田弘毅。1878年2月14日 - 1948年12月23日、外交官、政治家。
福岡県那珂郡鍛冶町の石材店の息子。旧名は丈太郎。外交官を経て二二六事件で倒れた岡田内閣の後を受け第32代内閣総理大臣となり日独防共協定を締結。戦後、A級戦争犯罪人として死刑となる。家紋は右二つ巴紋。墓所は福岡市の聖福寺にて撮影。

鮎川義介。1880年11月6日 - 1967年2月13日、実業家、政治家。
山口県氷川郡出身。読みは、あいかわよしすけ。父は旧長州藩士・鮎川弥八。母は井上馨の実姉の長女。日産コンツェルン (日産自動車、日立製作所、日産火災等)の創始者。杉田かおるとの結婚で話題になった鮎川純太の祖父。画像は多磨霊園にて撮影。

朝比奈泰彦。1881年4月16日 - 1975年6月30日、薬学者。
東京本所出身。読みは、あさひなやすひこ。東京帝国大学教授。「漢薬成分の化学的研究」で帝国学士院恩賜賞、文化勲章受章、文化功労者を受賞。著書は「日本隠花植物図鑑」「私乃たどった道」「正倉院薬物」。家紋は尾長巴紋。青山霊園にて撮影。

小山内薫。1881年7月26日 - 1928年12月25日、劇作家、演出家。
父は陸軍軍医・小山内建で、母は旗本・小栗家の出。二代目左團次と「自由劇場」を開始、「築地小劇場」を土方与志と起こし新劇運動の中心的存在となる。「新劇の父」の異名がある。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園にて撮影。

山本五十六。1884年4月4日 - 1943年4月18日、海軍軍人。
新潟県長岡市出身。旧越後長岡藩士・高野貞吉の六男。旧長岡藩家老の家柄・山本家を相続し山本五十六を名乗る。日米開戦には反対していた。最終階級は海軍大将(戦没後に元帥海軍大将を追贈)。家紋は左三つ巴紋。画像は多磨霊園の墓所にて撮影。

荻原井泉水。1884年6月16日 - 1976年5月20日、俳人。
東京芝区神明町生まれ。荻原家は越後国高田の出。本名:荻原幾太郎。東大文学部卒後、新傾向俳句機関誌「層雲」を主宰。「層雲」には河東碧梧桐、尾崎放哉、種田山頭火などが参加。代表作は『流転しつつ』『無所在』『奥の細道ノート』等。

吉井勇。1886年10月8日 - 1960年11月19日、歌人、脚本家。
東京芝区出身。祖父は旧薩摩藩士の吉井友実、父は海軍軍人吉井幸蔵。『明星』に歌を発表。北原白秋とともに新進歌人として注目される。歌集『祇園歌集』を発表。後に里見弴、田中純、久米正雄らと『人間』を創刊。家紋は左巴紋。青山霊園にて撮影。

阿南惟幾。1887年2月21日 - 1945年8月15日、陸軍軍人。
大分県竹田市出身。読みは、あなみこれちか。平均的な軍務官僚で陸軍大臣就任以前は目立ったエピソードも少ない。誠実な人柄で人望が厚く今日でも人気の高い。ポツダム宣言の受諾返電の直前に自刃。最終階級は陸軍大将。画像は多磨霊園にて撮影。

九鬼周造。1888年2月15日 - …